名古屋での生活(判事として)

嘉子の職場であった名古屋地方裁判所は、名古屋市市政資料館として現在もその姿を残しています。

1922(大正11)年に当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設されたこの建物は、戦後は名古屋高等裁判所・地方裁判所として、1979(昭和54)年まで使われていました(二つの裁判所は、1979年に現在の中区三の丸1丁目に移転しました)。

(写真提供:Photo AC)

嘉子が勤務した頃は、現在の市政資料館(当時は本館と呼びました)を取り囲むように、別館などの建物が多く建っていました。

嘉子の勤務した民事部の判事室は、主に本館の2階にありました。

嘉子は、判事としてのスタートを切ると同時に、裁判所の外でも、以前よりもさらに積極的に活動するようになりました。

名古屋市教育委員会の社会教育委員(社会教育に関して計画立案・調査研究を行い、教育委員会に助言する委員)を引き受けたり、各婦人団体の講演会に積極的に講師として出かけたり、名古屋大学の女子学生たちが、自立したプロフェッショナルとしての生き方を目指して結成した「女子学生の会」にアドバイスしたりもしていました。

この「女子学生の会」の中には、後に弁護士・参議院議員として活躍する大脇雅子もいました。

また、嘉子は、徳島から名古屋に赴任してきた永石泰子判事補を連れて、いろいろなところへ出かけたようです。

泰子は1943年に明大女子部法科を卒業し、戦後に共学化した中央大学で学んだ最初の女子学生の一人で、法学部に在学中の1948年に司法試験に合格し、1951年に裁判官となった、注目される女性法曹の一人でした(なお、当時は女性法曹とは言わずに、「婦人法曹」と言うことが多かったようです)。