女性裁判官の転勤と任用

三つ目は、女性裁判官の転勤と任用についてです。

全国の裁判所のレベルをある程度同等に維持するためには、優秀な裁判官がきちんと地方にも配置される必要があります。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

嘉子が名古屋に移った頃には、裁判官(特に判事補)はだいたい3年程度で転勤になる仕組みができあがりつつありました。

問題は、まだ数少なかったとはいえ、結婚している女性裁判官の場合です。

転勤によって家族と別居する可能性も出てきてしまうわけですが、最高裁判所は、女性裁判官を特別扱いすることへの批判を受けて、平等に転勤させるようになり、女性裁判官の側もこれを受け入れていました。

しかし、やがてこの転勤を受け入れられる女性だけが、裁判官への任官を希望することが現実になり、1950年代後半には、転勤を命じる際に多様な家庭的配慮を考えなければいけない女性裁判官をそもそも採用したくないと考える傾向が、最高裁判所の中にかなり強く現れてきたようです。

1958年2月には、日本婦人法律家協会会長の久米愛の名前で、当時の最高裁判所長官田中耕太郎と法務大臣唐澤俊樹に宛てて要望書が提出されましたが、そこには、「法務省では二、三年前より女子の検察官を採用しないことに内定し、裁判所でも次第にこれを制限する方針であるという声をきくようになりました。憲法の番人である裁判所や法務省が職員の採用にあたり性別による差別をされるとは到底信じられません。これは司法部内の一部反動的な人々の個人的発言から生じた風説にすぎないとは思いますが、女子修習生がかかる風説に動揺を受け、任官志望につき消極的態度を余儀なくされている事実を見逃すことはできません」と記されています。

この問題は、ずっと後の1970年頃にも再燃しますが、長い年月と困難を乗り越えて、徐々に解消されていきました。