道三、頼芸、深芳野の関係

深芳野は、もともと土岐頼芸(よりのり)の愛妾だったといわれている。

頼芸は兄の頼武と守護職を争っていたが、大永5年(1525)に家督を奪取すべく美濃国守護所を占拠した。そのとき道三も大いに貢献したという。

『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(著:渡邊大門/星海社)

頼芸は深芳野を寵愛していたが、大永6年(1526)に道三に与えたという説がある。つまり、頼芸は褒美として、自らの愛妾を道三に与えたということになろう。

この話は、後世に編纂された『美濃国諸旧記』に記録されたものである。

別に、もう少し異なった記述をしたものがある。

道三は頼芸が愛妾として深芳野を囲っていたことを知り、しきりに所望したという話だ。それほど深芳野は美しかったのであろう。

道三は非常に殺気立った面持ちで、深芳野を所望したという。根負けした頼芸は「そこまで言うならば」ということで、深芳野を道三に与えたと伝わる。

のちに、道三は頼芸を追放するのであるから、このときすでに主従の立場が逆転した様子がうかがえる。この話は、後世に成った『美濃明細記』という記録に残されたものである。

二つの記録は後世の編纂物であるため、十分な検討を要しよう。頼芸が道三に深芳野を与えたという話は、創作の可能性があることを申し添えておく。

深芳野が産んだといわれる道三の子の義龍は、のちに大きな問題となった。道三の長男である義龍は、本当に実子だったのかについて、もう少し考えてみよう。