義龍生誕の時期
先ほどの二つの記録によると、道三が頼芸から深芳野を貰い受けた翌年、義龍が誕生したという。
義龍の生誕は、大永7年(1527)のことである。この時期が実に微妙な時期だった。
道三が深芳野を側室として迎え入れた時期も、義龍が誕生した時期も、何月だったか不明だが、通常、懐妊してから約10ヵ月で子供は誕生する。それゆえに義龍をどちらの子とすべきかが問題なのである。
一説によると、深芳野は道三の側室となった時点で、頼芸の子を懐妊していたといわれている。
これが正しいとするならば、道三は深芳野が懐妊していた事実を承知のうえで、結ばれたことになる。当時、こうしたことが実際にありえたのか、例に乏しく不明である。
この説が俗説として簡単に退けられないのは、道三と義龍との親子関係が実に複雑だったからである。
道三は、常日頃から義龍を無能呼ばわりしていたという。道三が義龍を無能呼ばわりしたのは、実子でなかったからであると考えられている。そのため道三と義龍は、犬猿の仲だったという。
義龍は伝聞などによって、自身が道三の実子でなかったことを知った可能性が高い。一説によると、義龍は出生の秘密を長井隼人正から明かされたというので、その言葉を信じたのだろう。
2人の関係が実の親子でないということは、父・道三の義龍に対する態度に滲み出たのかもしれない。血も涙もない「美濃の蝮」と恐れられた道三だったが、意外に血縁関係を気にしていたのだろう。
義龍が道三の実子でないことを感じていたならば、のちに道三が実父の頼芸を追放したことを許せなかったはずである。
こうして、義龍は道三を討とうと強く決意する。