塔の記号の歴史

そもそも塔の記号は明治13年に整備が始まった2万分の1迅速測図が最初で、単に「塔」と規定していた。

電波塔など存在しない頃なので、もっぱら五重塔、三重塔など寺院の梵塔を対象としている。

戦前の図式にあった「梵塔」の記号。東京・上野東照宮の灯籠記号が並ぶ参道の北側に 寛永寺五重塔(当時)が描かれている。 1:10,000「上野」大正5年修正<『地図記号のひみつ』より>

形はこれらの塔を上から見たイメージで、方形の屋根の棟を対角線状に描くデザインであった。

やがて時代が進んで梵塔以外の塔が増えたことを背景に、明治42年図式で初めて「高塔」の記号が現れる。

これで「梵塔」と区別するようになったのだが、実質的にはその前の明治33年図式まで存在した「西教寺院ノ鐘楼」という記号の守備範囲をキリスト教会以外にも広げたものであった。

大正3年(1914)12月に刊行された記号判読のためのガイドブック『地形図之読方』によれば、高塔は「高聳セル建築物仮令ハ(たとえば)層閣、火見櫓、西教寺院ノ鐘楼、時計台ノ如キモノヲ示ス」とある。

古い1万分の1地形図で確かめてみたら、まさにこの月に開業した東京駅の赤煉瓦駅舎にも南北端にそれぞれ1ヵ所ずつ、この高塔記号があった。

東京駅の屋根は昭和20年5月25日の大空襲で焼け落ちてしまったが、平成24年に創建当時の姿に復元された。

図に描かれていたのは現在丸の内北口と南口のドームの上にある八角形の塔屋で、現代感覚では「高い塔」には見えないが、建物の一部である塔屋にも高塔記号は適用されていた。

昭和10年に陸地測量部が部内向けに発行した『地形図図式詳解』でもきちんと説明していて、「家屋ニ属スルモノハ家屋ノ真形ヲ描キテ其存スル位置ニ記号ヲ描クヘシ」とある。

銀座四丁目の交差点に関東大震災以前から聳えていた服部時計店の時計台(現在は2代目)ももちろんこの記号で描かれていた。

戦後は箱型のビルが増えたこともあってか、さすがにこのようなきめ細かい使い方はしていない。