窓際では、窓から身を乗りだして、橘京也(たちばな・きょうや)が敷島(しきしま)をくわえている。京也はハルと同時期に百合川が内地から呼び寄せた三十代の挿絵画家で、百合川が東京の雑誌社で働いていたころに知りあったらしい。ハルと同じくらい背が高く、細身で、ぼさぼさの髪の浮世離れした雰囲気を漂わせる色男だ。ちゃんとした格好をしたらさぞ見栄えがするだろうに、とハルはその着流しの着物姿を見るたびに思う。
 京也に声をかけることは避けて、視線を玉蘭に戻す。
「波子(なみこ)さんはおやすみなの?」
 玉蘭は、うなずくといかにも残念といった表情を浮かべていた。
「うん、舅殿の虫の居所が悪かったんだって。娘の順子(じゅんこ)が登校前に挿絵だけ届けてくれたよ。ハルの机に置いておいた」
 西側の窓にそって置かれたハルの机の上には、たしかに数枚の挿絵がていねいに並べられていた。
 細く美しい線で描かれた新富町(しんとみちょう)市場の入口と、八百屋に並べられたパイナップルの挿絵。迷いなく引かれた線は繊細だが、市場の活気に満ちた雰囲気を見事に描写している。
 ハルは思わずため息をついた。市場をテーマに記事を書くと決まってから十日がすぎたが、原稿の完成を待たずして、優雅な挿絵が先にできてしまった。波子の仕事の早さとていねいさに感銘を受けると同時に、ますます自分が役立たずのように思えて気分が沈んだ。