歓楽街のなかに編集部を置くなんてまともな神経とは思えない――。働きはじめたころ、帰り道で玉蘭にそういうと、玉蘭は、小姐はお客を見てるんじゃなくてね、ここで働く女性たちのほうを見てるんだよ、とどこか謎めいたことをいっていて、ハルにはよくわからなかった。 
 薄暗い階段を上って、百合川が編集部の扉を開けると、煙草のにおいのする風が吹きだしてきた。ハルもそのすぐあとを追って部屋に入る。編集者の劉金福(ラウ・ジンホー)が、大きなテーブルの前で玉蘭となにか話をしている。
 百合川は、女性の視点を反映した雑誌をつくるために、書き手を女性のみにするということには強くこだわったそうだが、編集に関しては、いまだ台湾に本格的な編集の経験がある女性がいないという現実的な理由から、台北の新聞社で働いていた樹木のように物静かな、しかしきわめて優秀な劉を雇い入れたと、やはり玉蘭からハルはきいた。
 玉蘭は視線を上げると、笑みを浮かべた。
「ふたりで出勤とはめずらしいね」
「スズラン通りでばったり出会ったんだ」
 百合川はそう答えると定位置になっている部屋の奥の革張りのソファーに腰掛けて、ローテーブルに積んである新聞に手をのばした。編集長としての百合川の仕事は、『台湾日日新報』や『台湾新報』などの日本語新聞、内地の文芸誌、台湾で発行されている雑誌類に目を通すところからはじまる。
 ハルは、百合川の関心が自分からそれたことにほっとしつつも、どこか物足りないような気分で部屋のなかを見まわした。