老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「大体、君たち若いお母さんはねぇ……」
「あー、でも、ここ、小さい子専用のコーナーなんですよねー」
 気持ちよさそうに正論を述べる篠田の声を、しかし、金に近い茶髪の母親が途中で遮った。
「公園はもう寒いですし、子どもたちに風邪引かせるわけにはいかないですから。ここ、絵本のほかに、パズルとか、ゲームとかもあるんで、多少は遊んでいい場所だと思うんですけど、どうなんですかねー」
 相変わらずどうでもよさそうな口調だったが、引くつもりはないようだった。
「まあ、公園で遊ばせてたって、どの道、うるさいって文句言ってくる人はいるんですけど。とりあえず、少し静かにさせますので」
 言うなり、身体の大きな男の子のほうを向く。
「ごう、ちゃんと静かにしなさいね。でないと、このおじいさんが本読めないんだって。みんなも分かったー?」
〝おじいさん〟と呼ばれた篠田の頬が、ぴくりと引きつったようだった。
 子どもたちは誰も返事をしなかったが、口答えもしなかった。少々不貞腐れた表情を浮かべつつも、一応、黙って絵本を広げる。
「じゃ、そういうことで」
 茶髪の若い母親は篠田との会話をあっさり切り上げ、ママ友相手にお喋りを再開させた。
 篠田はしばらくなにか言いたげにしていたが、苛立たしげにカウンターへ向かっていった。
「君たちがちゃんと注意をしないから……」
 やがて、カウンターのほうから篠田の説教が聞こえてくる。今度は司書相手に文句を言っているらしかった。相手をしている司書の声は、ここまで届かない。
 重たい英国紅茶大全を持ったまま、くどくどと言い募っている篠田の姿を、香織はじっと見つめた。
 多分あの人、昔は会社で、ある程度の役職に就いていたんだろう。
 先刻の上司口調を思い返し、そんなことを考える。
 ラウンジにも若い女性たちを引き連れてくるが、恐らく、かつての部下に違いない。
 二回とも違う女性を連れていたことから、本当のところ、篠田がそれほど彼女たちと信頼関係を築けているわけではないと窺われた。
 篠田が香織や瑠璃を怒鳴りつけている間、同席の女性たちが押しなべて白けたような表情を浮かべていることからも、その関係性が透けて見える。
 女性たちは、単に桜山ホテルのアフタヌーンティーにつられて、かつての口うるさい上司の誘いに乗っているだけだろう。しかも、一回が限度という感じで。
 なんだかみじめ。
 上司風を吹かせるために、かつての部下をつなぎとめたり、周囲に説教を垂れまくったりしていることを、本人は自覚していないのだろうか。
 たとえ現役時代にどれだけの役職に就いていたとしても、会社を出てしまえば、サラリーマンなんて、みんなただの人なのに。
〝おじいちゃん〟呼ばわりされたとき、篠田が顔を引きつらせていたことを、香織は寂しく思い返した。
「……ったくさぁ、自分のほうがよっぽどうるさいじゃん。あのジジイ」
 ふいに、ぼそりと声が響く。
 カウンターから動こうとしない篠田の後ろ姿から視線を転じると、若い母親たちが顔を寄せて囁き合っていた。
「どこにでもいるんだよ、ああいうの」
「一言申さないといられないジジイね」
「そういや、うちのパート先にもいるわ。〝言いにくいこと言うのがあたしの仕事〟ってカッコつけながら、説教ばっかしてくるウザいオバサン」
「はあ? そんな仕事あるわけないじゃん」
 二人はくすくすと笑っている。その後は、互いにスマートフォンを取り出して画面を操作し出した。
 四人の子どもたちが再び取っ組み合いを始めたが、気にする素振りも見せなかった。
 今の若い人って、なんて図太いんだろう。
 香織は半ば、呆れた気分になる。
 彼女たちが延々スマホをいじっている様子をぼんやりと眺めながら、結局二人とも、篠田に一言も謝らなかったことに、香織は気がついた。
〝すみません〟〝本当に申し訳ありませんでした〟
 自分は二度も頭を下げたのに。
 急に腑に落ちない思いが込み上げる。
 以前、公園でも似たようなことがあった。春樹がお気に入りの滑り台を何回も滑っているのをベンチで見ていたら、突然、厳しい顔の老婦人に「いつまで滑っているのか」と、詰(なじ)られたのだ。
〝うちの孫が、さっきからずっと順番待ってるんだけどね〟
 まったく気づかなかった香織は平謝りに謝ったけれど、思えばその孫は順番待ちをするでもなく、老婦人の後ろに隠れているだけだった。あれでは気づかなかったことを責められるほうがおかしい。
 しかも、その後、いかにもギャル上がりの若い母親と子どもたちがやってきて滑り台を独占しても、老婦人はなにも言わなかった。
 要するに、ほとんどの人は、強く出られそうな相手にしか強く出ない。
 子どもの頃からずっとそうだ。規則をきちんと守ろうとする真面目な生徒だけが、先生の説教や小言を正面から受けとめる。
〝ウザい〟の一言で、それをはねつけてしまう他の生徒たちの分まで含めてだ。
 篠田のように、歳若い女性全般を見下すことで己の面目を保とうとするような相手の小言も、まともに受けとめているのは、結局自分だけだった。
 昔から、優等生、優等生と言われてきたけれど、優等生の実態なんて、所詮そんなものだ。
 もし、自分に茶髪の母親のような図太さがあれば、ウイキョウのエキスなんて、義父母宅にそっくりそのまま送り返していただろう。
 それができれば、どんなに気分がすっとしたことか。
 だけど、できない。そんなことをするのは非常識だから。
 真面目は損だ。ルールを守ろうとする側ばかりが、割を食う。
 分かっていても、変われない。なぜなら、つまるところ、私は優等生でいたいから。
「ママ」
 同じページを開いたままの春樹に呼ばれ、香織はハッとした。春樹は完全につまらなそうな顔をしている。
「ごめんね、春ちゃん」
 なぜだか、香織は春樹にまで謝った。
「帰ろうか」
 そう告げると、強く頷かれた。 
 春樹の手を引いて出口へ向かう途中、篠田がまだカウンターで司書相手になにか言っているのが眼に入る。
 香織は首を横に振り、足早にカウンターを通り過ぎ、図書館を後にした。

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