法律家には多少の反発心があったけれど

私は東京・麻布永坂町で育ちました。二・二六事件(1936年)のとき、流れ弾が飛んでくるかもしれないと、父が畳を上げて備えていたことをおぼろげに覚えています。

小学校に入る前の年に父が応召し、生計を立てるために母は自宅で塾を始めました。「復習塾」と書いた看板を掲げ、着物の洗い張りに使う張り板に脚をつけた即席の机を、2階の座敷にずらりと並べてね。

母は故郷の町でただ1人、師範学校に推薦されたのだそうです。結婚するまで学校の先生をしていたので、昔取った杵柄というわけね。

当時から東京には中学校や女学校入学を目指す受験生がいましたから、通ってくる子どもはたくさんいました。教え方もうまかったようで、立派な鯛やお赤飯といった合格祝いのお裾分けをいただいたのを覚えています。

母は「着物はいくら作っても火事に遭えばなくなってしまうけれど、身につけた教養は振っても落ちない」とよく口にしていました。そういう母の影響もあってか、私には「お嫁さん」への憧れが一切ありませんでした。

いずれ働いて経済的に自立するのが当たり前だと思っていましたし、漠然と母と同じ教員になるものと考えていました。