後に夫となる義雄さんと。1954年秋、司法試験の合格直後に撮った一枚(写真提供◎手塚さん)

高校で生徒会を作って活動したり、クラス対抗の討論会に出たりすると、「正枝さんはお父様の跡を継いで弁護士になるのね」などと言われるので、子ども心に法律家には多少の反発心があったのかもしれません。

結局教員ではなく法曹の道に進んだわけですが、その母が肺がんとわかり、余命宣告を受けたのは、司法修習生になって間もなくのことです。

手塚は大阪で、私は東京で修習中でしたが、母を安心させるため、11月に福島の神社で式を挙げ、母の枕元でごく内輪の披露宴をして、また修習地に戻りました。翌年の1月、母は弟の司法試験合格を待たず旅立ちました。

手塚はともに法曹界を目指した仲ですから、私が働くのは当たり前のことと考えていたと思います。

私はいわゆるイソ弁(弁護士事務所に勤める弁護士)をしていましたが、結婚の翌年に長男、3年後に次男、その翌年に三男、4年後に長女、と4人を出産。育児に追われ、仕事はだんだん開店休業状態になっていきました。

後編につづく