足利と上杉の対立

まず紹介した教科書に登場する「足利持氏、足利成氏、鎌倉公方、上杉憲忠」といった人名や用語から説明しよう。

足利尊氏は京都に政権(室町幕府)を置いた。ただ、それまで150年以上、鎌倉に政権があったので、尊氏はその地に鎌倉府を置いて室町幕府の出先機関とし、関東地方を支配させた。

『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(著:河合敦/扶桑社)

その長官を鎌倉公方といい、尊氏の三男基氏の家系が代々、公方に就任した。そんな鎌倉公方を補佐するのが関東管領(かんれい)であり、これも代々、上杉氏が継承した。

やがて鎌倉府の権限は拡大し、東北地方まで管轄するようになり、京都の室町幕府と競合・対立するようになった。

とくに鎌倉公方足利持氏は幕府に反抗的な態度をとった。そこで関東管領の上杉憲実(のりざね)がその姿勢を諫めると、怒った持氏は憲実を攻め滅ぼそうとした。

驚いた憲実が幕府に救援をもとめたところ、好機と考えた六代将軍足利義教(よしのり)が大軍を派遣、敗れた持氏は自害に追い込まれたのである(永享の乱)。

こうして鎌倉府は滅亡。持氏の子・成氏は鎌倉から逃れたが、その後、関東の諸将の要請もあって幕府との和解が成立、1447年、成氏は鎌倉に戻って公方となり、鎌倉府が復活した。

このときの関東管領は上杉憲実の子・憲忠であった。だが、永享の乱以後、成氏派の武士と上杉氏の家臣団との関係は悪く、1450年には憲忠の重臣や上杉派の武士たちが成氏の御所へ攻め寄せる事件がおこった。

幸い事前に企てを知った成氏は、江ノ島に避難して無事であった。この騒動は室町幕府が仲介に入り、上杉方が謝罪して一応終息したが、その後も両派の確執が続いた。