享徳の乱のはじまり

そして1454年、「急な用事があるので、すぐに来てほしい」と足利成氏は、上杉憲忠を自分の屋敷に呼び出した。

どううまくおびき寄せたのか不明だが、憲忠は疑うことなくわずか22人の供を連れただけで、のこのこ成氏のもとへ出向いてしまう。

ちょうど、憲忠の重臣・長尾景仲(ながおかげなか)は、相模国長尾(神奈川県横浜市)に出向いて不在だった。おそらく成氏方はその隙をついたのだろう。

やって来た憲忠は、結城成朝(しげとも)、武田信長、里見義実(よしざね)といった成氏方300騎の襲撃を受け、あっけなく成朝の家来・金子兄弟に討たれ首をもがれてしまった。まだ、22歳だった。

同時刻、憲忠の屋敷にも成氏方の岩松持国の軍勢が押し寄せ、多数の上杉家臣が討ち取られた。これが享徳の乱のはじまりである。

事態を知った景仲は、すぐに長尾から鎌倉へと取って返し、憲忠の妻子を実父の上杉持朝(もちとも)の屋敷に避難させたあと、上野国(群馬県)へ走って兵を募るとともに、越後国(新潟県)守護で上杉一族の房定(ふささだ)に応援を求めた。