橙色のまん丸い街灯が街路をまぶしく照らすスズラン通りに入ったところで、後ろから大きな声がきこえた。

「ちょっと待って!」

 玉蘭が藍色のプリーツスカートの裾を風にひるがえして駆けてきて、すぐにふたりに追いついた。一陣の風が吹いてきたようだとハルは思う。

「まだ仕事があったんじゃないのか?」と百合川がいった。

「シャオリンとふたりでやってたらすぐに終わったの。あの子、のみこみ早くってね」

 息を弾ませてそう百合川に答えると、玉蘭はハルにいった。

「ねえ、ハル、小姐……じゃなくて、秀琴となに話してたの?」

 玉蘭はお嬢さまに、自分のことを名前で呼ぶように厳命されているんだ――。そう思うと、百合川にさらに意地の悪い態度を取ってみたい気持ちがむくむくと湧いてきた。

「べつに大したことじゃない。お金持ちのお嬢さまの高貴なお悩みをちょっと拝聴していただけよ」

 ハルの皮肉に一番驚いたのは玉蘭だったようだ。目をぱちくりさせて百合川の反応をうかがっている。

 百合川は愉快そうな表情を浮かべてから、ハルの肩を優しく叩いた。

「ハル、会計はわからないといっていたな? いま決めた。シャオリンの給金はしばらくハルの給料からだすことにしよう。そうすれば、わたしはお金持ちのお嬢さまにふさわしい傲慢さを発揮することで、つまらない悩みからも解放され、ハルは卵を買うよりずいぶん効率よくシャオリンの成長と生活をたすけることができる。一石二鳥だ」

 ええっとハルが非難の声を上げるのもきかずに百合川は、さあ、きみたちの家に到着だ、では、また明日な! といって逃げるように新盛橋に向かって駆けだした。

 くすくすと笑いながら、玉蘭がさっきの百合川と同じようにハルの肩をぽんぽんと叩いた。

「小姐は、ほんとうに負けずきらいなんだ。からかうのはほどほどにしたほうがいいよ」

 軽快な足取りで跳ねるように歩く小さな後ろ姿を、ハルは呆然と見送る。百合川が、背の高い洋服姿の男性や、着物を着た女性たちの陰に隠れて見えなくなって、ハルはひとつ軽いため息をついた。

 ――自分だって十分短気じゃないの。

 ふりむくと、玉蘭はもう家のなかにきえていた。通り向かいのモダニズム建築のカフェーからは軽快なジャズの音色が響いている。日中の熱気を追いはらうかのように、緑川のほうから涼しい風が吹いてきた。亜熱帯にきて、はじめての秋がくる。

 ハルは、百合川がいなくなった街路にもう一度チラリと視線を送って、くすっと笑うと、玉蘭の待つ家にゆっくりと入っていった。

(第一話・終)

この作品は一九三〇年代の台湾を舞台としたフィクションです。
実在の個人や団体とは一切関係ありません。