日本人の沈黙は本当に安全を保障するのだろうか?
国際社会がボーダレス化している現在、日本人の沈黙は本当に安全を保障するのだろうか?政治家の汚職に対しても、戦後の安全保障の歪さについても、(安保闘争以降の)日本すべての国民が声を上げたわけではない。気が付けば国民の資産が海外資本に売却されたり、血税が湯水のように政治家のポケットマネーになったりしている。さすがにそろそろ声を上げるべき瀬戸際ではないだろうか?だから私はこの総裁選を前に、『JFK』をお勧めしたかった。
『JFK』の中で、私たちは何度も繰り返し、ケネディ暗殺の瞬間を見る。それはトラウマのように心に焼き付くのに、映画のためにつくられたシーンにしか見えない。あまりにもショッキングだからだろう。観衆の中で二方向からの弾丸を受けて崩れ落ちる若き大統領、美しい妻は我を忘れて、愛する夫の吹き飛ばされた脳の一部を拾おうと、オープンカーの後部ボンネットに乗り、手を伸ばす…
そんなことは起きてはいけないのに、起きてしまった。それが現実なのだ。そして日本でも、安倍元総理が凶弾に倒れた。現実は、とっくにフィクションを凌駕している。ドキュメンタリーを見ている私たちが時間を忘れるのは、「現実」があまりに残酷なことに打ちのめされるからだろう。
世界はさらに複雑だ。「ウォーレン委員会」という大統領暗殺に対する政府の公式調査会の報告書で、自分の提出書類が書き換えられていることに気づいたギャリソン検事は、「陰謀」の存在を確信し、自分の命や家族の安全を脅かされながらも真実に近づこうとする。
映画だから「がんばれギャリソン!」と言いたくなるが、もしギャリソンが自分の夫や父親だったら、「いい加減にやめて!」と言いたくなるだろう。映画の中の妻リズも、夫に調査中止を求め、二人は離婚を意識。ギャリソンの仕事仲間も次々と離れていく。
陰謀はあまりにも大きく、キューバやソビエトなど共産国やマフィアとの関係、武器商人との取引、CIA、FBI、そして現職大統領の関与まで見えてきてしまうのだから、ビビッて当然、殺されて当然。そんな調査に首を突っ込んでしまったのがギャリソン検事なのだ。