戦前「スウィングの女王」、戦後「ブギの女王」

「ブギウギ」とは、1920年代のジャズ草創期、シカゴの黒人ピアニストたちが発明した演奏スタイルで、ブルースを引く際に左手で8拍子の反復リズムを刻み、右手でメロディやフレーズを弾くのが特徴とされる。

30年代後半になってダンス音楽として大流行し、戦後の日本でも駐留米軍のクラブで演奏された。これをいち早く歌謡曲に取り入れたのが、大阪生まれの作曲家・服部良一で、笠置シヅ子のために「東京ブギウギ」(1947年)、「ヘイヘイブギ―」(1948年)、「買物ブギ―」(1950年)などを作曲して大ヒットさせた。

これらの楽曲のヒットで笠置は一躍、国民的歌手になったが、決して時代の波に浮かれたアプレゲールな芸人ではなかった。見た目は普通の大阪のおばさんでも、基礎からきっちりと磨き上げた歌と踊りは超一流だった。

日本最長老の映画評論家で、淀川長治と並び称された双葉十三郎が映画雑誌『スタア』(1939年6月上旬号)に『笠置シヅ子論』を寄せた。同年4月、丸の内・帝国劇場で笠置シヅ子が所属する松竹楽劇団(SGD)のレビュー「カレッジ・スヰング」を観た双葉が、彼女のすばらしさをこのように称賛した。

「凡そショー・ガールとして、またスウィング歌手として、当代笠置シヅ子に及ぶものはないであろう。(中略)彼女の持つスウィング調、それは今までの我が国の歌手が容易に体得し得なかったものである。(中略)エラ・フィッツジェラルド、マキシン・サリバン、ミルドレッド・ベイリー、ルイ・アームストロング、かれらのスウィング調なるものは到底我が国には求められぬものと、半ば絶望にも似た気持ちとなっていた。が、笠置シヅ子はこの憂鬱を、希望と歓びに置き換えた」と絶賛し、将来「スウィングの女王」となることに熱い期待を寄せた。

双葉の観察眼のすばらしさは、彼女の歌と踊りの技量を認めるだけでなく、「彼女の持って生まれた小柄な体躯、そのちっぽけな体のこなしによって他の及び得ざる魅力を生む」ことや、「大阪弁の持つ一種独特の飄逸を肉体化している」こと、その例として、「彼女が舞台の隅にひょいと示すとぼけた味は、東京の人間にはおそらく絶対に持ちえないものであろう」ことに気づいたことである。

彼の予言通り、彼女はたちまち「スウィングの女王」と呼ばれるようになり、ショー・ビジネスのトップスターに上り詰めていく。戦前は「スウィングの女王」、戦後は「ブギの女王」と呼ばれ、戦争を挟んだ暗い時代に世の中を明るくし、多くの人々に生きる希望を届けたのである。

彼女の音楽は戦争を挟んだ暗い時代に世の中を明るくし、多くの人々に生きる希望を届けた(写真提供:Photo AC)