彰子のライバルたち
彰子にとってむしろライバルとなったのは、藤原公季の娘の女御義子(996年入内)、藤原顕光の娘の女御元子(996年入内)、藤原道兼の娘の女御尊子(998年入内)だった。
彼女らは長徳元年(995)に定子の父、藤原道隆が没した直後に入内しており、いまだ皇子誕生がなかった定子を牽制する意味で送り込まれた可能性が高い。
藤原公季は師輔の子(道隆の年下の叔父)で、兄の兼家から道隆へと関白が移ったため摂関のルートには乗れなかったが、母が村上天皇の同母姉の康子内親王という、飛び切りの高貴な血筋であり、義子の入内当時は大納言。
また藤原顕光は、師輔の次男で兼家の兄の関白兼通の長男で、元子の入内当時は権大納言。ともにいわば准大臣である。
しかも顕光の妻で元子の母は、やはり村上天皇皇女の盛子内親王ときている。
元子と義子は村上天皇に連なる、彰子以上に箔付きの姫なのである。
そして義子は入内時すでに23歳、元子の年はわからないのだが、長徳3年に想像妊娠ではないかと思われる懐妊騒ぎを起こしているので妊娠可能な年齢になって入内したものと思われる。