二人のキサキが並ぶ体制はどのくらい続いた?

彰子といえばライバルとしてよく挙げられるのが、父道長の兄、道隆の娘の定子だ。

しかし実際に二人が後宮で並び立っていたのは、彰子が女御となった長保元年11月から定子が没する同2年12月まで、1年程度に過ぎず、彰子中宮、定子皇后と、一人の天皇に二人の最高位のキサキという体制だったのはその中でわずか10ヶ月、彰子が12歳から13歳のころである。

『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

おそらく二人は顔も合わせたことがなかっただろう。

貴族の姫は母方で育つもので、父方の従姉妹だとまず会うことはない。

後宮では、皇后と中宮はもちろん、女御たちとも会う機会はまずなかったと思われる。