「声を上げる」ことは責務ではない
ずっと、声を上げることが怖かった。過去を知られることが怖かった。大勢の当事者が声を上げている事実を知りながら、私は見て見ぬふりをした。声を上げるということは、父との約束を破るということだった。
「誰にも言うな」
「言ったらもっとひどいことが起きるぞ」
父が繰り返しすり込んだ脅しは、恐ろしいほどの効果をもたらした。父の思惑通り、私は幼馴染以外の誰にも過去を打ち明けることはなかった。精神科の医師にさえ言えなかった。言ったら本当に、ひどいことが起きると思っていた。
結論から述べると、父の脅しは嘘だった。私が全世界に向けて父から受けた仕打ちを訴えても、私の身に父の手が伸びてくることはなかった。それどころか、友達ができた。私の文章を「好きだ」と言ってくれる人たちが、だんだんと私自身を「好きだ」と言ってくれるようになった。
私の過去を知った大勢の人が、「はるさんは悪くない」と言ってくれた。書きはじめた当時の私は、ペンネームに苗字をつけていなかった。そのため、多くの人は今でも私を「はるさん」と呼ぶ。幼馴染だけが言ってくれた言葉を、「悪くない」というお守りを、多くの人が伝えてくれた。
誤解のないよう申し添えるが、当事者が声を上げることは責務ではない。声は上げられる人が上げればいいし、上げられない人は上げなくていい。そこに一切、優劣はない。むしろ当事者は、傷の回復や生活の立て直しに専念してほしいと個人的には思う。このエッセイを読んだ人に、万が一にも「声を上げていない自分」を責めてほしくない。
声を上げることで傷を負わないのは、おそらく不可能だ。私もまた、深いものから浅いものまで、数えきれないほどの傷を負った。見えるところで書く。自分の被害体験を公にする。その重さは、想像を絶するものであった。得たものと同じぶんだけ、大切なものを失った。それでも書くのをやめないのは、私と同じ目をした子どもの声が、今でも耳について離れないからなのだと思う。