正直な体、嘘つきな心

幼少期の経験により、痛みを鈍麻させて生き延びる術に長けている。こんなこと、なんの自慢にもならない。「お前に対する愛情なんてとうの昔にない」と言われても、「そうですか」と思うだけだった。あんなに愛し合って一緒になることを決めたはずなのに、私たちは何をどこで間違えたのだろう。何度も重ねた話し合いの結末は、いつも同じところに着地した。

「俺だったら、そのぐらいで傷つかない。それで傷つくお前がおかしい」

「愛情がない」と言われても、「用済みだからあっちに行け」と言われても、それで傷つく私がおかしい。話はいつもそこに行き着く。やがて私自身、元夫のその主張に流されるようになっていた。

私が神経質なだけかもしれない。
私が彼の言葉を悪く受け取り過ぎているだけかもしれない。
私の被害妄想かもしれない。

そう思おうとするたび、決まって嘔吐した。いつだって体は正直で、心だけが嘘をついていた。

繰り返される痛み、繰り返される諍い、繰り返される葛藤。そのすべてに疲れていた頃、ある出来事があった。相手のプライバシーにかかわる話なので、詳細は書けない。ざっくり言うと、かつての自分を彷彿とさせる子どもに出会った。その子どもが振り絞るように訴えるSOSを聞き、私は思い知った。昔の私と同じような子どもが、現在もそこらへんにあふれていることに。

顔を押さえる子どものイメージ
イメージ(写真提供◎Photo AC)

その子どもは、無事に守られた。できることはすべてやったが、未だに「もっとできることがあったのでは」と悔いる面も多い。大人として、自分にできることは何かと考えた。経験も知識も学歴も資格もない。そんな私が思いついた、たった一つのこと。それが、「声を上げること」だった。