枇杷殿で譲位した三条天皇
さて、話を「枇杷殿跡」に戻しましょう。
その駒札には、このように記されています。
「1002年以降、藤原道長と二女・妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます」
『光る君へ』でも描かれているように、内裏は度々火災に遭い焼亡しました。枇杷殿は、こうした際の里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を、天皇のお住まいとして用いたもの)でもあったのです。
なお、ドラマを観ている方には「清少納言が当邸で仕えた」という部分が気になるかもしれません。清少納言が仕えていた一条天皇の皇女・脩子内親王(母は定子)がここを使っていた時期があったため、このような説明になっているようです。
第43回「輝きののちに」では、内裏で火事が続くのは三条天皇の政に対する天の怒りが原因だと、道長が、枇杷殿に遷御した三条天皇に譲位を迫る場面がありました(その頃、彰子は高倉殿に移っています)。
史実によれば、病に苦しむ三条天皇は、ついにこの枇杷殿で譲位し(1016年)、翌年、崩御するのです。
ちなみに、火災で焼失したのは内裏ばかりではなく、1016年7月には道長の土御門第が、9月には枇杷殿が放火によって焼けてしまったとか。このときばかりは、道長も「自分のことをよく思っていない人がいるのであろうか」と思い悩んだそうです。