『源氏物語』にも登場する門跡寺院
では、なぜ仁和寺に、天皇の御殿である紫宸殿が移築されたのか。その理由は、この寺院の成り立ちをひもとけば見えてきます。
仁和寺は、888年、宇多天皇によって建立された真言宗の寺院です。譲位後に出家した宇多法皇が仁和寺に入寺。以降、1867年までの約1000年にわたって、皇族が歴代の門跡(住職)を務めてきた格式高き門跡寺院です。
当然ながら、皇族や朝廷とのつながりは深く、御室御所とも呼ばれたほど。そこで、内裏の建て替えの際などに、紫宸殿や清涼殿の一部を賜ることができたのだと考えられます。
ちなみに、中宮・彰子が、土御門第で敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産んだときのように、皇室の方々の出産の際には、仁和寺の僧侶が駆けつけて、加持祈祷を行ったそうです。『光る君へ』でも、僧侶たちの物々しい読経が響き渡る出産シーンが印象的に描かれたので、ご記憶の人も多いでしょう。
かつての紫宸殿の建物は、本尊である阿弥陀三尊を安置する金堂として使われています。外周には格子状の蔀戸(しとみど/寝殿造りの開口部に使われた板戸の一種。上下2枚に分かれており、開けるときは上半分をはね上げて先端を金具にかけて固定する)が配されていて、建物全体にも風格が感じられます。
通常、金堂の内部は非公開で、蔀戸も閉じられたままですが、平安京の面影を伝える建築物として、外観を眺めるだけでも興味深いのではないでしょうか。京都御所の紫宸殿と見比べて、違いを見つけるのも、おもしろいかもしれません。
現代においても24万坪の土地と150棟の建物を有する仁和寺。しかし、平安時代の伽藍は今よりはるかに広大だったようです。皇族、貴族だけでなく、文化人との関係も深く、平安時代には貴人たちが集う文化サロンのような役割も果たしていたとか。有名歌人を集めた和歌の会には、紫式部も参加していたのではないでしょうか。
というのも、『源氏物語』には仁和寺を想起させる寺院が登場するのです。
『源氏物語』第35帖「若菜下」では、光源氏の正妻となった女三の宮の父、朱雀院(すざくいん/光源氏の異母兄でもある)が出家し、「西山なる御寺」に入ります。その「西山なる御寺」のモデルは仁和寺だといわれているのです。