赤い服を着た遺影
二〇二三年四月十日、逝去から二日後、伊東の法輪閣で行われた富岡多惠子の通夜は、戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり作家であり、評論家であった女性のそれとしてはひどくささやかなものと映った。参列者は親族に、菅の美術関係者をいれて総勢十五人、文学関係者は心理学者の小倉千加子と作家の松井今朝子の二人で、通夜が終わったあとに作家の黒川創が京都から駆けつけたが、祭壇の前の供花にも文学者の水田宗子(のりこ)の他に出版社の名前は二社あったのみ。赤い服を着たうんと若いころの富岡の遺影の横で、喪主の菅はツイードのジャケット姿で静かに立っていた。
浜松に住む富岡の十二歳下の弟、昌弘はいかにも大阪人らしい洒脱さでこの夜を思い返した。
「変わった葬式やったでしょ。木志雄さん、普段着を着てたんで、『喪服は持ってないんかいな』と聞くと、『これでいいんだ』って。お通夜の寸前まで遺影がなくて、木志雄さん、自分が手元に持っていたのを引き延ばしたみたい。芸術家でなんにもわからない人やから、みんなで、お葬式の手配したんです。木志雄さん、これからどうすんのやろ。大丈夫かなぁ」
富岡の姪で大阪に暮らす小林かづみに、菅から電話がかかってきたのは、叔母が亡くなる数日前だった。「ものを食べなくなっている」とうろたえる菅に、七歳年下のかづみが「様子が変わったら救急車を呼んでください」と念を押した。間もなく「救急車を呼んだ」と連絡が入った。
かづみが病院にかけつけたときは、もう叔母の意識はなかった。
「それまで祖母の葬式とかで顔を合わせていたかもしれませんが、菅さんとまともに話したのは、そのときがはじめてです。ほおっておいたら直葬になってしまうかもしれないと思って、『ちゃんと通夜と本葬しなあきません』と言うと、菅さん、慌てて葬儀屋に連絡してはりました」
通夜の式場では、香典を受け取るか受け取らないかでひと騒動あった。「受け取ればいいじゃないか」と言う菅を、周囲が「受け取ったら、お返しが大変だから」と止めていた。あとでかづみは、式場のひとに「いらしてくださって、よかった」と感謝されたという。富岡の亡くなった日をめぐっても、当初は六日と発表され、後に八日に訂正されることになる。
菅は、葬儀場での出来事に苦笑いした。結婚して五十四年、家のことはすべてにおいて妻が決断し、差配してきた夫婦なので、妻がこの世からいなくなった瞬間から途方に暮れるしかなかった。
「僕はなんにもわからないアホだからねえ。困ったときに誰に相談したらいいのか、浮かんでこなくってね。自分でどちらかに転ばなきゃいけなくなっているから、苦しいですよ」
ただ菅には、妻の葬儀を盛大にやるために誰かに頼むつもりはなかった。
「僕がやるしかないし、僕がやるのが一番」