多惠子さんがいたから

 富岡と出会ったとき、菅は多摩美術大学絵画科を卒業して半年たっていなかった。前年に新人画家の登竜門である公募展で一等賞を受賞してはいたものの、どうして生きていくのかさえ見えていない彷徨のなかにいた。
 あのころの自分を語る菅に、衒いはない。
「現代美術で生きていくなんて、実際は考えられないでしょう。だいたい、現代美術なんて、売れるわけがないんですから、飯食えないですよ。でも、僕には富岡多惠子がいたわけだ。多惠子さんがいたから飯は食えた。飯食えたら、作品をつくるのが僕の役割。作品をつくることで恩返ししようというのが、僕の考えだったよね。だってやらなきゃ、単なる大飯食らいでしょう。あんな大詩人を前にして、ただ飯を食らっていたらアホですよ」
 富岡多惠子が長いベールに、ミニスカートのウェディングドレスを着て、原宿の教会で菅木志雄と結婚式を挙げたのは、六九年六月のある午後だった。詩壇ではとびきりの人気者で、知識人や芸術家からは対談相手にとラブコールがやまず、エッセイストとしても売れっ子の三十三歳。まだ小説は書いていなかった。

                     (バナー画提供:神奈川近代文学館)

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