整理されていた写真
結婚して一年後に富岡が書き下ろし、ベストセラーになった自伝にはこんな一節がある。
〈わたしも年の順でいけば先に死にますからよろしくたのみますと、ケッコンした挨拶にいったのであった。すると、このヒトは、葬式はまちがいなくやってあげますといい、葬式がすんだら自分もあとを追いますよ、というので、わたしは長生きしそうな友だちや、若い弟たちに、もし彼がわたしの葬式のあともずっと生きていたら、約束がちがいますよといってくれるよう見張りをたのんだのである〉(『青春絶望音頭』一九七〇年)
大室高原の麓にある自宅のリビングには、額に入った富岡の写真が何枚も飾られている。この広い気持ちのいい家を訪れるたびに、写真の数が増えていた。リビング奥の三方の下半分が本に囲まれた和室には祭壇があって、真ん中に遺影が置かれ、周囲を白い花が囲んでいた。
アーティストが手作りした妻の祭壇である。
「小さな机の上に写真を立て、祭式のひと揃いを前に置いただけのものですよ。僕は朝と晩、ローソクを立て、水をやり、カネを鳴らしてお経を読んでいます。遺影は、慌てて探したけれど、あれしかなくてね。パスポート用の小さなものじゃないかな。それを引き延ばしたんですよ。僕が出会ったときくらいかな、若いときの写真だよね。ボーイッシュで、とてもいいでしょ。可愛いでしょ。
写真はほとんど撮ってないと思っていたのに、亡くなってから、彼女の書斎のボックスからたくさん見つかったんです。行き先ごとに写真を袋に入れ、どこで撮ったのか、袋の表に書いていました。一目瞭然です。多惠子さんらしいよね。
写真を見ていると、いろいろなことが思い出され、しばし悄然としました。あのときはこうすればよかったとか、後悔が生まれてきました。写真は手放したほうがいいのか自分で持っているほうがいいのか、ずいぶん迷った。でも、僕もじきに死ぬのだから、ちゃんと残しておくのは僕の役割なので、ほとんどを神奈川近代文学館に寄贈したんです。何もないのは淋しいので何枚かを残しましたけれど。そのなかのものを、額を作ってね、いれてね、毎日、いいなぁと思って、眺めてるんです。彼女の本はほとんど残ったままです。本があるのは、心休まることだよね。多惠子さんが浮かんでくるからです。今にして思えば、たくさんのものを残していったんですね」
妻が亡くなってからも菅は毎日、一定の時刻になると自宅から車で七分のところにある十足(とおたり)のスタジオに出かけていく。そこには、大きな木材や散策中に集めた枝といったさまざまな素材と電動ドリルなどの工具がぎっしりと詰め込まれた木工所のような二階建ての制作場に、倉庫と、作品を飾る展示室の三つの建物が建っている。
伊東に暮らして五年ほど過ぎたころ、作家から「作業の音がうるさい」と苦情が出て、自宅地下のスタジオも手狭となったために、必要に応じて建てていったのだ。
「僕の場合、制作をしないでジッとしていなさいと言われたら、一番困ります。作品をつくれないと存在感がなくなったような気になるから、とにかく毎日スタジオに行き、はて、今日は何をするかなと自問自答して、材料などを準備するんだよ。その間、多惠子ちゃんは、自宅にいて、文筆をしていました。あるとき、『書くのは速いのか』と聞いたことがありましたが、『まあね』と言って笑っていた。見ている限りでは締め切りを越えるようなことはなく、期日にきちっと原稿を送っていました。それは当然と言えば当然だけど、時には大変だなぁって思ってましたね。
僕のように作品が具体的なものであれば、存在物として誰でも確認できるし、時間の融通もきいて、見た目が難しそうであれば、『時間がかかりますね』と逆に言ってもらえます。作家は書くだけではなく、何を書くかを考える時間も必要ですから、心も身体も休むヒマもないわけで、大変だなぁといつも思っていました。作家というのは、他人(ひと)が助けることのできない仕事ですね」