猛烈に貧乏だったふたり

 そのころの田中は、美術や映画、本などの文化欄を担当していたこともあって、会社近くに開店した南天子画廊や南画廊に足繁く通っていた。当時の京橋界隈は、戦後の美術の中心で、今は皇居近くに立つ東京国立近代美術館が開館し、日本橋から銀座にかけては画廊も多く点在した。
「南画廊には詩人の大岡信が出入りしていたり、美術評論家で作家の瀧口修造とも画廊で知り合うんですが、ちょうど池田満寿夫が東京国際版画ビエンナーレ展で、パウル・クレーを発見したドイツ人の世界的評論家ヴィル・グローマンに大絶賛され、文部大臣賞を受賞したあとです。そこからグローマンが後見人となり、池田は世界に出ていくんだけれど、僕は彼の作品、ドライポイントの線をすごく面白いと思ったんですね。だから池田をインタビューしていた読売新聞の美術担当の記者に、紹介してもらった。そこから池田・富岡夫妻と仲よくなって、家にも出入りするようになったんです」
 田中が訪ねたとき、池田・富岡は、世田谷区松原の一軒家に暮らしていた。ふたりは駆け落ちして暮らした新宿十二社(じゅうにそう)の下宿家から、63年夏にここへ引っ越していた。ニューヨークに行った画家の吉村二三生から、「帰ってくるまで」との条件で借り受けたのだ。ふたりの前には、70年に『性の政治学』を著してフェミニズム第二波の先頭に立つことになる前衛芸術家のケイト・ミレットが住んでいた。
「住所は、吉村方となっていました。そこは中二階があって、広くはないけれど洒落た一軒家ですよ。隣には、作家の巖谷小波(いわや・さざなみ)の孫で、フランス文学者の巖谷國士がきれいなおばあさんと住んでいました。富岡さんは詩壇では人気者だったけれど、僕は池田の連れ合いとして出会ったんだよね。よく、『耕平さんは、マスオのファンだから』と言われましたよ。彼女の友だちで目立ったのは森茉莉さんで、詩人の白石かずこさんとは非常に仲がよかった。
 ふたりとも名前は出ていたけれど、まだ猛烈に貧乏だった時代です。同じ世代だから話が合ったんですね。僕が遊びに行くと、まず『碁を打とう』ということになるの。ふたりとも碁が好きなんだけれど、下手くそでねえ。それで碁を打ちながら、『天丼でもとろうか』なんて言って、僕が行くと、必ず中央公論の金で店屋物をとっていました。
 あのころは雑誌の黄金時代でしょ。『中央公論』は売れていたし、全集ブームもあった。高度成長時代だったから、入社時に1万2000円だった給料が暮れには1万8000円になって、それからどんどん上がっちゃって、何回したかわからないくらい賃上げがあったから、池田の版画もずいぶん買いましたよ。彼の代表作になるような大きな作品が1枚、5000~6000円だった。100枚くらい買ったんじゃないかな。だって僕、新入社員のときに社旗が立ったリンカーンに乗っていましたから。室生犀星のところへ『生きたきものを』の原稿をもらいに行ったときも、リンカーン。池田に会いに行ったときも、リンカーン。狭い道路なんて通れません。僕らの時代の編集者は、嶋中さんに『中央公論の編集者は超一流じゃないとダメだ』という教育を受けて育ったんです」