「1963年 魅惑のカップル」
最初の「婦人公論」から約1年後、富岡は63年1月号のグラビアに池田満寿夫とツーショットで載った。「1963年 魅惑のカップル」というタイトルが打たれたそれは、6組のカップルが紹介されたいかにも正月号らしい企画であった。
仕事場で刷り上がった銅版画を手にとる富岡に、輪転機にもたれかかり、斜め上からそれを眺める池田。他の5組は、渥美清と彼が出演するNHK「夢であいましょう」で司会を務めるファッションデザイナー中島弘子や、62年に大ヒットした映画「キューポラのある街」の純愛コンビ、吉永小百合と浜田光夫など、仕事上のパートナーをカップルと見立ててあった。そのためか、誌面に富岡の〈このカップルのなかで結婚しているのは私たちだけの由で、いささか照れています〉という言葉が載っている。
このころ、池田満寿夫・富岡多惠子と友情を結ぶのが、後に富岡に小説を書かせることになる、中央公論社の編集者だった田中耕平である。
藤沢に暮らす86歳の田中を訪ねると、何冊もの本と手紙の束を持って現れた。
「富岡さんも池田満寿夫も、中央公論とは縁が深いんですよ」
田中は、富岡よりひとつ、池田よりふたつ年下の1936年生まれ。早稲田大学哲学科を卒業し、60年4月に中央公論社に入社していた。
「前年の59年に創刊した『週刊コウロン』に人がいるってことで、その年はいつも以上に20人くらいが採用され、僕もそのひとりでした。56年に新潮社が『週刊新潮』を作り、文藝春秋も59年に『週刊文春』を作ったでしょ。ちょうど週刊誌ブームでした。ところが、大日本印刷で『週刊公論』の出張校正をやっているときに、社長の奥さんが刺されたという一報が入ったんです。社長の家は大日本の近くだったからすぐにみんなで行ったら、三島由紀夫が飛んできていた」
61年2月1日に、中央公論社の嶋中鵬二社長宅に右翼団体の若者が侵入し、夫人とお手伝いさんを刺し、お手伝いさんが死亡するという事件が起きたのである。前年11月に発売された「中央公論」掲載の深沢七郎の小説「風流夢譚」に書かれた皇室への表現を「不敬」としたテロで、60年安保で高まった左翼運動を揺り戻そうとするかのように、前年に起きた浅沼稲次郎暗殺に続く右翼テロだった。
当時の「中央公論」は10万部から14万部の発行部数を誇り、日本の言論界をリードしていた。嶋中事件とも風流夢譚事件とも呼ばれる当件は、言論の自由・表現の自由をめぐり、その後のメディアに多大な影響を与えていく。
「『風流夢譚』が載ってから、右翼の街宣車が20台くらい毎日毎日、京橋にあった中央公論の本社ビルにやってきてワーワーやるもんだから、受け付けの女性なんか怖がってしまってね。次号に短いお詫びが載ったけれど、そのあとにあの事件が起こってしまった。それでもう『週刊公論』をやってる場合じゃないということで、その年の夏にやめてしまうんですね。で、僕は新人教育だということで1年校閲部にいって、63年から編集の方をまたやるんですね。最初は、『婦人公論』に配属されました。今のような大判でなく、半分の判でこーんな分厚いやつ」