富岡多惠子と池田満寿夫(『婦人公論』1965年5月号)
戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

「犀星賞の喜び」

 富岡多惠子の名前が「婦人公論」にはじめて登場するのは、東京が世界初の一千万人都市となった1962年のことである。巻頭の随筆の欄に「犀星賞の喜び」と題した一文を寄せていた。
 大阪女子大学英文科在学中に出した最初の詩集『返禮』で、22歳のときに詩壇の芥川賞ともいえる第8回H賞を受賞した富岡は、3年後の61年12月、3冊目の詩集『物語の明くる日』で辻井喬の『異邦人』と並んで第2回室生犀星詩人賞を受賞する。随筆が載って1カ月後、室生犀星は72歳の生涯を終えるのだが、富岡はそれまで名前しか知らなかった高名な詩人が自ら設立した賞を贈ってくれたことを喜び感謝し、47歳のときには評伝『室生犀星』を著した。

〈わたくしは去年の正月に大阪で学校の先生をしていたのを放って、東京へ絵かきと一緒に生活するために家を出てき、その絵かきもやはり家を出てきた。わたくしはなんだか東京へくることをそれまで嫌っていたが、好きなにんげんと一緒にくらしたい、という単純でありきたりな理由があったため、東京へくることになった。わたくしも彼も、なにももっておらず、ちいさい、まるっきり陽のあたらない部屋でじっとした。わたくしは生活の変り方のひどさで、しばらくすることがなく、大きいカンバスでちいさな部屋を仕切って、おたがいの顔がみえないようにしてから、彼はまえからの続きの賃仕事のような本のさし絵に色をぬり、わたくしは仕方なく『物語のあくる日』という詩をかきだし、それはいつまでたってもつづいて、なかなか終わらないので、一年ぐらいの間かきつづけてしまうことになった〉(「婦人公論」1962年2月号)

 続いて、貧しい暮らしのなかでパートナーの「絵かき」が文部大臣賞をもらい、フランスで賞(パリ青年ビエンナーレ優秀賞)をもらったと、綴られている。名前は書かれていないものの、池田満寿夫だとわかる。
 犀星賞受賞の詩集は最初の詩集と同じく自費出版だった。だが、父親に出してもらった10万円で京都の老舗出版社が製本した『返禮』とは違い、知人に借金した3万円を元手に、田町の印刷所でタイプ印刷したプリントをホッチキスで留めただけの簡易な出来であった。

〈その借金をかえすために、彼の銅版画を入れて、パンフレットのような安物の本を、銅版画を入れているということでわりあい高く売って元をとった〉〈本を買ってくれた人の多くは詩を買うのではなく、本の中の版画を買っていった、とわたくしは思い、こういうことになるたけハラをたてないことだと思ってもみた〉(同前)