1966年5月、ロンドンから届いたポストカード(田中耕平氏提供)

 

ニューヨークからヴェネチアへ

  65年7月、富岡は池田とともに羽田からニューヨークへ飛び立った。田中のもとには早々に、自由の女神の絵ハガキが届く。ハガキには池田の文字で、ニューヨークの前に立ち寄ったサンフランシスコが秋のような気候で、田中が贈ったVANの背広が役に立ったとある。宛て名の英文字は富岡で、「モシモーシ、‥‥タエコデス」と添え書きされていた。
 田中の手元の残る2通目の便りは個展が終わった9月に届いているのに、なぜかそのことには触れられていない。2年前に暗殺されたJ・F・ケネディの横顔がプリントされた、封筒と便箋が一体となった11セントのエアメールで、最初に富岡が出発前に約束していた2本の原稿を「かんべんしてほしい」と綴っていた。ことに「ふたりでかくのかんべんしてほしいとセツに思います」とある。
 折り返したページに、池田がその理由を書いていた。
「『文芸』にタエコとボクで文章をかゝされたところ、編集部にはマスヲ(ママ)クンの方が数倍、タエコ女史よりも面白く、秀れていると云う返事が来て、タエコ女史は大むくれで、目下自信を失っている有様です。(中略)クロトウ(ママ)である女史にとってはおゝいにやりにくい訳で、ぼくの方からも、絶対にクロトウ(ママ)とは組まないぞとタンカをきっております」
 富岡に原稿断りの手紙を書かせたふたりの随筆は、「文藝」65年11月号に、タイムズスクエアに立つモノクロのツーショットが添えられ、「二人はアメリカと話した」のタイトルがついて掲載された。
 富岡と池田が交互に書いている。両者の文章のどちらが面白いかはともかく、8月9日から40日にわたって開催された池田の個展が大成功だったこと、ビートルズの映画(「ヘルプ!」)が上映されていること、ハプニングと呼ばれる、偶然性を尊重したパフォーマンスがニューヨークのアートシーンを席捲していたことがわかる。この時期、ニューヨークは現代アートの中心地だった。のちに富岡が「会った」と書くオノ・ヨーコも草間彌生もそこにいて、自分の表現と激しく格闘していた時代である。
 翌66年5月初旬、富岡・池田はジャパン・ソサエティの奨学金を得て、10カ月暮らしたニューヨークを発ち、ヨーロッパへ向かう。池田がヴェネチア・ビエンナーレに招聘されていたのだ。このときもまた、ふたりは田中に便りを書いている。エリザベス女王の切手が貼られたロンドンからのポストカード。
 表書きは富岡で、裏は池田が滞在した国で買った服や靴で飾って腕を組むふたりの姿を、青と赤とグリーンのボールペンを使い描いていた。タエコはパリ製のスーツ350フラン、グリニッチビレッジのハンドバッグ15ドル、スペインの靴5ドルに、スコットランド帽をかぶっている。隣のマスオはスペインの靴2ドルに、子供服売場で買ったロンドン製のズボン3ポンドに、ポケットにはロンソンのライター2ポンド。「山高帽を欲しいがまだ買っていない」「ロンドン製の背広を買いたいがサイズが合わない」と説明されていた。
 この手紙からひと月足らずして、池田はヴェネチア・ビエンナーレ版画部門で大賞を受賞した。6月28日、ニューヨークに戻らねばならない版画家とローマで別れた詩人は、単身日本へ帰っていく。いっときの別れが別離のはじまりになるとは、ふたりはまだ知らない。

                     ※次回は1月15日に公開予定です。
                                                           (バナー画提供:神奈川近代文学館) 
           

 

 

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