決められなかったマスオ

 この間の事情を両者から聞かされていた田中の記憶では、リランの登場により富岡が帰国したことになっている。だが、実際のところは、詩人が版画家の裏切りを確信したのは「オニのいぬ間の洗濯」を書いた直後かと思われる。ちょうどその時期、親友の白石かずこが旅の途中でサンフランシスコにいた池田を訪ね、事情を教えたようだ。
 それまでのタエコは自身の仕事で多忙のなか、マスオの授賞式に代理で出席し、若林のマンションを契約して改造し、家具を揃えた。実はタエコはマスオと離れて5カ月後の8月、「9月10日までにはドイツに行きたい、連載は10月号までにして欲しい」と「現代詩手帖」の八木忠栄に申し入れている。が、マスオに必死で止められ思いとどまり、そうしたマスオに不信を抱きながらも、彼の仕事をフォローした。海外までたくさんの食料を送り、長野にいるマスオの両親への連絡を怠らず、そのことを彼に手紙で報告した。週22度は国際電話をかけた。
 マスオも、タエコと別れる決心がギリギリまでつかなかったのである。富岡は自伝では池田との生活を7年余と言い、池田は8年としていて、彼はリランとの同棲中もタエコと別れようとは考えてもいなかったのだろう。 
 リランが自伝で書いていた。

〈彼は常々、自分がどれほど詩人を愛しているか、どれほど彼女の仕事を尊敬しているか、どれほど彼女の考え方が彼にとって必要かを話していた〉(『余白のあるカンヴァス』1976年)

 田中には、池田の気持ちがよくわかった。
「彼女はやはり、今で言うところのインフルエンサーなんですね。あの饒舌なおしゃべり、特別な才能があるんですよ。才能のない僕なんかは辟易することがあったけれど、触発されるよね、やっぱり。大阪のことから文楽のこと、近松のことをしゃべったり、もっといろいろなことしゃべるわけです。だから巻き込まれちゃう。とにかく刺激されることが結構あるんですよ。だから絵描きとか造形作家は、彼女がしゃべっているなかからヒントがふっと出てくることがあるんだと思いますよ。
 池田も、富岡さんがいたからあれだけになれたっていう感じがしなくもありません。彼女と一緒にいたときの作品が一番面白くって、ドライポイントのあのチリチリした線は抜群だよ。あとは石版やったりしたけれど、全然面白くないもの。そのことは池田自身もわかっていたと思う。彼はリランに猛アタックされたんですね。リランは富岡さんとは正反対のタイプで、好きになったのもわからなくはない。それだけに苦しかったし、迷ったと思いますね」