「生きていくアキラメ」からの結婚

 富岡には、新しい女の出現はきっかけにしかすぎず、別離の根本には自分たちの関係性の変化があることはわかっていた。

〈男が女と疲れずにつきあう法というのを忘れぬためには、やはり人類の男がいままで考えぬいて実行してきた方法をバカにしてはならないであろう。女をコルセットでしばり、テン足をはかせ、裾の長いキモノをきせ、コドモをたえまなく生ませ、自分を食べさせる術を教えず、ものを考える暇を与えず、牛と女はどやしながら使えというわけで、ゆめゆめ女を人類と思ってはならぬということであった〉 (「婦人公論」六八年七月号)  

 対等なパートナーであるはずの女が〈ワキ〉の存在から離れ、自身がシテとなるために「自分の仕事をはじめたこと」を、男は口ほどに喜んではいなかった。一緒に暮らす男と女が(創造的な)仕事をしているとどちらかがくたばるのではないかと、周囲が見ていることにも気づいていた。

〈シゴトにかなり疲れてきている男にとってはあんまりありがたいことではなかったであろう。男にとって、だいたい必要なのはオンナであって、人間のわからない領域にのめりこんでいく女という種類の人間ではないからである〉(『青春絶望音頭』)

 タッグを組み、どんな困難も乗り越えて「共に偉大な仕事をしよう」と目指したタエコとマスオの関係は、幻想に終わった。
 富岡は、別れるまでの逡巡と葛藤には、仕事をして果たして自分はひとりで立っていけるのかという不安があったことも認めている。

〈そういう勝負に出ようなどという胸算用は、わたしの場合、詩を書くというような生活とはどうしても衝突する。シゴトをすることの、それまでの暮しの中における屈折した屈辱がもたらしたところもあったのだろう〉(同前)

 田中は、富岡の口から「結婚」という言葉が出てきたのはまだ彼女が荒れていた時期だったことを覚えていた。
「夜中だったよね。いつものように3時間ほど喋っているうちに、『耕平さん』と言うから、『なに?』と聞き返すと、『若い子に私のファンがいて、結婚したいと言ってるんだけれど、どうしたものかな』って。僕はすぐに『いいんじゃない』と言ったの。『もう池田はやめとけ。好きだと言ってくれる人がいたら結婚したらいい』ってね。『いいかな?』とまた聞くから、『いいんじゃない』って言いました。富岡さんが池田と別れてひとりだとみんなわかってきたころで、画廊か詩の朗読会かで会ったんじゃないかな。その相手が菅木志雄だったわけですが、僕はまだ菅クンには会ったことはなかったんですよ。でも、いい青年だと言っていたから、菅クンのことは好きだったんじゃないかな。彼女は冷静だったよね。自分の来し方行く末をよく考えて、結婚したんですよ」

〈多分、男のあのあつかましい求婚は、今にして思うに、生きることに忙しく恋をするヒマがなかったのであろうし、女の迷いと承諾は生きていくアキラメを楽天的にひきうける返事だったのであろう〉(同前)
 
 はじめての「結婚」に〈アキラメ〉という言葉を使った詩人は、エッセイストとしても女性たちの支持を集めていくのである。

 

                     ※次回は2月1日に公開予定です。
                                                           (バナー画提供:神奈川近代文学館) 

 

 

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