引き裂かれるような離別
ベルリン留学中に「美術手帖」で連載がスタートした池田の自伝には、妻とも女房とも呼んだ富岡との別れがリアルタイムで綴られ、それを〈自分の生涯での最もつらく、きびしい事件〉とした。
〈無名の男の成功の過程が彼女と私との生活の中にすべて含まれている〉〈富岡多惠子と一緒になったことは、この批評家の目を内蔵したようなものだった。信ずるにたる一つの目が私と隣りあったところに置かれていたともいえる〉〈「私はツキを人にあたえる女なのよ、私と一緒になったらその男は成功する」と富岡は確信に満ちて私を魔術にかけたものだった〉 (『私の調書』1968年)
池田がリランと暮らしていると知ってから、富岡は毎日のように田中耕平へ電話をかけてきた。会社にも、自宅にも。
「うちの女房まで『富岡さん、荒れているねえ』なんて言うくらいだから、そんな感じでしたね。もう文壇のみんなは、知っていましたよね。毎日電話がかかってきて、毎日会ってました。で、会うたびに長いんだ、話が。電話も3時間くらい、長いときは5時間くらい。愚痴を言うわけじゃないんですよ。別れたくないから、電話をかけてくるんですよね。なかなか諦めがつかなかったんじゃないかな」
電話攻勢のなかで、田中は、富岡からあるものを贈られている。それは手びねりの石膏でこしらえた人形で、密教の歓喜仏のように2体がもたれあい、それぞれ裏にはマスオとタエコとあり、「躁鬱人形」と書かれた紙が立っていた。富岡は、手作りの人形を手作りの紙の箱にいれて田中に渡したのだ。
「躁は池田で、鬱は富岡さんだよね。富岡さんは池田の仕事を手伝っていたし、陶芸を習うぐらいだから器用だし、美術の才能もあった。結構上手いですよ。諦めるプロセスでつくったんじゃないかな。彼女が死んだとき、これは遺してはおけないと思って捨てました」
田中は、話しだすと止められない富岡に、ひとつのことを繰り返した。
「池田はリランをつれて帰ってきちゃったからね。だから僕は『富岡さん、逃げていく男を追いかけるもんじゃないよ。みじめになるだけだからやめておきなさい』って、一生懸命、言ったよね。それで、『取れるもんは全部取れ。それでもう忘れちゃえ。池田とはもう関係を持つな』って言いました。新しい若林のマンションにはエッチングのプレス機も、作品もあったから、全部取れってね。言ったというより、もう命令したんですよ。で、詩では食えないからね、『小説を書け。書いたら、僕が載っけるから』と言ったの。彼女は金にならないだけで詩壇では名前がちゃんとあったし、才能はあったし、小説を書くのに機が熟してると思っていたからね」
詩人が小説の前に書いた離別宣言には、ふたりで未練がましくなんとか別れないでいられないものかと話し合ったことが綴られている。だが、互いに涙を流しながらも引き裂かれる思いで別れるしかなかった。