三后独占の行く末も安定したものではなかったが
しかしその一方で、道長は九月に目の病の薬らしい「紅雪」という薬を服用しており、この後も目がよく見えないことを記しています。
天文学者の説では、寛仁二年十月十六日はじつは満月で、望月と言ってもおかしくないとのことですが、道長には「たとえ自分の目には月がぼんやりとしか見えなくても、この望月は欠けない」という思いがあったのでしょう。
とはいえ現実には、皇子を産んだのは彰子太皇太后だけ、そして彰子と妍子皇太后はすでに夫を失っていて、新しい皇子を産む可能性があるのは威子だけでした。
望月のごとき三后独占の行く末も必ずしも安定したものではなかったのです。
しかし冷徹な道長は、「望月」のその未来まですでに計算に入れていたのかもしれません。この日に集まった次世代、嬉子と禎子はのちに後朱雀天皇の后になるのですから。
そして後朱雀と禎子の子孫から天皇家はずっと続いていくのです。摂関の栄光が遠い昔のことになった現代までも。
『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)
平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。