道長も一目置いていた存在
藤原隆家といえば、中関白といわれた摂政関白藤原道隆の子、内大臣藤原伊周と一条天皇の皇后定子の弟である。
『大鏡』に「世の中のさがなもの」(世に知られたツッパリ野郎)と書かれ、『栄花物語』には誤認とはいえ花山法皇に矢を射かけさせて袖を貫き、長徳2年(996)の〈長徳の変〉の原因になったと書かれた、無頼派の貴族である。
〈長徳の変〉によって中関白家は自滅の道を歩み、道隆の弟の左大臣藤原道長が名実ともに政治の実権を握った。
隆家は出雲権守への左遷が解けて帰京した後も、権力者の道長に対して一歩も引かない度胸でいろいろなエピソードを残し、道長も一目置いていた。
しかし政治的には恵まれず、中納言に留まるうちに目を病んで、唐人の医者に診てもらうために大宰府に下っていたのである。