『大鏡』による隆家のエピソード

病気治療中とはいえ『大鏡』によると、彼は「筑後(福岡県・佐賀県の一部)・肥前・肥後(熊本県)など九国の人に動員をかけて、大宰府の内に仕える人も動員して戦わせた」とあり、戦後には戦闘に加わった豪族たちへの恩賞を上申し、さらに拉致された人々を帰還させた高麗使には砂金300両を送るなど的確な対処をおこなっている。

どうやら権帥として支配下の人々をがっちり掌握していたので、エマージェンシー対応が可能だったらしい。

事件のしっかりとした記録が残されているのも、対応したトップが隆家だったからということが大きいだろう。

また、実資は道長に批判的で、隆家を高く買っており、九州への下向についてもかなり骨を折っていたようだ。

そのため、隆家は、上申が正しく伝わるように実資に書信を次々に送り、実資はそれを日記に記録していたらしい。

※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。


女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。