「他人は自分のことをそんなに見てねえ」

若いころは、いろいろやってみた方が良いだろう。そして、ある程度したら「自分に合わないこと」はやめて、合うことだけ残していくべきだ。私はたまたま、美容もダイエットもオシャレもお出かけもコミュニケーションにも向いていないという、人間どころか地球に向いていないタイプだったので、それら全部をやめたわけだが、それが好きだという人は無理にやめる必要はなく、齢100を越えても、海外旅行に行ったり、燃えるように紅いルージュを引いたりすれば良いのである。しかしそういう人に対しても、「年甲斐もなく」と言ってくる人間は必ずいるのだ。

そんなことを言ってくるタイプは、やめてラクになった女、または一貫してやり続けている、自分を持っている女を見ると不安になるので、足をひっぱりたいだけである。よって何をやめるにしても続けるにしても、そういう声を聞くのはやめて、自分の声を聞くことが重要になってくるのだろう。もちろん独り言のボリュームを最大にしろという意味ではない。他人の意に沿うことではなく、自分のやりたいことを優先しろということだ。

しかし、若さの最大の特徴は「他人の目が気になる」ことであり、これは年をとってもなかなかなくならないものである。ゆえにどれだけ早く「他人は自分のことをそんなに見てねえ」と気づくかが「ラクになる」秘訣のような気がする。ただそれも、「自分は一生他人から『いいね!』を押される存在でいたい」というなら、死ぬまでカメラの位置を気にして生きるのもまた、一本筋の通った人生である。

だが、このように達観したようなことを言ってはいるが、もちろん、やるやらないの取捨選択は続く。なぜなら人生には、やめる以前に、やってすらいないことがまだまだあるからだ。

私の場合も、美容や外出には興味がなくなったが、健康や筋肉にはまだ興味があるので、高価な健康食品や筋トレグッズを買う可能性はあるし、それをやり続けるかやめるかも、やってみなければわからない。やったり、やめたりすること自体もうやめたいとなったら、「チャレンジ精神と期待感を持つのを一切やめる」ということだろう。そうすれば、無駄のない人生にはなるだろうが、逆に、何で生きているのかもわからなくなりそうである。

やはり死ぬまで「やったり、やめたり」を繰り返すのが、“生きている”“実りある人生”ということなのかもしれない。