「皮肉なことに、1年限りで歌を歌っていた間に、仕事をすることの楽しさに目覚めちゃったんですよ」

いやいや、自分の親の滞納、言ってみれば 《借金》ですから、夫に払ってもらうわけにはいきません。「私が返す!」と覚悟を決めて、1年間限定でキャバレー回りをしました。

父親の借金だけれど理不尽とは思わなかった。やはり血がつながっていますからね。当時の歌手は、家族を支えたりいろいろ事情を背負っている人もいた。私が肩代わりするのも仕方ない、という感覚でした。

ところが皮肉なことに、1年限りで歌を歌っていた間に、仕事をすることの楽しさに目覚めちゃったんですよ。しばらく休んでいた反動でしょうか。「私、働くことが好きかも」と。次第に夫とすれ違いの生活になり、4年半で離婚することになりました。

しばらくの間はステージに上がるのがつらかった。「バツイチ」なんて気軽に言える時代じゃなかったですからね。「あの人、離婚したのよ」という視線が突き刺さってくるようで。とはいえ、娘を抱えて生きていくためには働かねばなりません。

あるとき、地方公演の際に風邪をこじらせ声が掠れて出なくなったんです。「このまま歌えなくなったらどうしよう?」と、ホテルの部屋にあった新聞の求人広告欄を見たんですが、経理や営業の募集内容に「私にはひとつもできない」とショックを受けました。

でもそのとき、私は歌で生きていくしかないのだと、覚悟が決まったと言いますか。結局父の思惑通りの人生を歩むことになりました。(笑)

その父は、肝臓がんを患って1994年に70歳で亡くなりました。私が《借金》を返済したとき、父に伝えたけれど、お礼もなにも言われなかった(笑)。けれど、亡くなる前日に病院のベッドの上で、「今までよく働いてくれた。ありがとね」と言ってくれたんです。

それまでは、私のコンサートを見にきても、「あの歌い方はなんだ!」と文句ばかり言っていたのに。「よく働いてくれた」というその一言が、私にとって最初で最後の褒め言葉になりました。

後編につづく