太陽と月
私がそう思うのは、三代の后のうち2人までが未亡人だったからである。
この時点で政治に関わる男性皇族、つまり小一条院という尊号を受けて上皇待遇になった元東宮の敦明親王やその兄弟の一族以外には、男性の上皇・天皇・親王は、後一条とその弟の皇太子敦良親王(後朱雀天皇)しかいなかったことである。
女御は天皇の使用人で三位あるいは四位に叙せられるが、中宮・皇后以上は位階を持たない皇族待遇である。
道長の3人の娘は、もはや貴族ではなくなっていたことになる。
つまり一条・三条・後一条の三代にわたる天皇家の中枢にいる、事実上の王権の構成員は、この時点では、なんと後一条・後朱雀兄弟と、3人の后の5人だけで、6割が道長の娘だった。
まさに道長政権は天皇家男性(太陽)を最低限に抑え、后たち(月)にコントロールさせることで維持されていたのである。
※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)
平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。