断腸の思いで大阪を離れる

85年、仕事の拠点を東京に移しました。関西を離れることに対しては、内心忸怩(じくじ)たる思いもありましたが、バブル経済期を前にモノもお金も情報も東京に一極集中し、ファッションビジネスも大阪にいると後れをとる時代になってしまっていたのです。

バブル期は大量消費の時代でしたが、私はいいものを作るという方針を貫きました。そのため縫製工場泣かせとも言われましたし、こだわってモノづくりをしたため利益率が低く、赤字になる年もありました。それでも私は、自分の信念を変えるつもりはありませんでした。

バブル経済が崩壊し、景気が悪くなると、倒産する縫製工場も増えました。でも、他の仕事が激減している時期だからこそ、複雑なデザインも時間と人手をかけて丁寧に取り組んでくれ、難しい技術を求められても頑張ってついていくと言ってくれる工場経営者もいたのです。

おかげで他にはないファッションをみなさんにお届けすることができ、バブル崩壊後、黒字に転換できたと自負しています。

このように、さまざまな艱難(かんなん)辛苦がありましたが、今思えばすべてが糧となりました。苦しみはあるのが当たり前。なんでもスイスイとうまくいっていれば、こんなに長続きしなかったかもしれません。

やはり継続するには、苦しみも喜びもひっくるめて全部取り込み、なにが起きても乗り越える力を自分で育まなくてはいけないのだと思います。

ちなみにビジネスの拠点を東京に移したとはいえ、今でも私にとって関西は原点の地。今も週末は必ず芦屋の家で過ごすようにしています。

毎週飛行機で往復するのは大変ですが、緑に囲まれた静かな芦屋の家で絵を描いたり、お客様方を招いて食事をするなどしてリフレッシュするからこそ、東京で忙しい日々を過ごすためのエネルギーがチャージされるのです。