幸せにしたい

 まだ24歳だった菅は、言葉にしようとはしない富岡の煩悶をなんとか和らげたいと思った。
「やっぱり、池田の思い出を処理していく過程は、結構厳しかったんじゃないかと思います。版画もたくさん持っていたからね。そこをブチ切るために、僕のようなアホが必要だったわけですね。僕がいて、わけのわからないことを言ってると、気が安まったんじゃないかな。ひとりでいるのは厳しいなというところもあったでしょう。僕には、そこのところの穴埋めをできればいいかなという思いが多少はありました。多惠子さんを幸せにしたかった。僕は絶対裏切らない、一緒になったら死ぬまで一緒だと、もうそのときには思ってましたよね。
 最初は何かで池田の作品が出てくると見たりして、こだわったりするところはあったけれど、結婚してからは池田の影を感じることはなくなって、僕も吹っ切れましたよ。ただ多惠子さんと一緒にいた男だから、いい女と一緒になって、いい仕事をしていってほしいとはずっと思っていましたよね。でも、ふたりだったのにひとりがいなくなってうまくいかなかったんじゃないかな。僕が自分の仕事で世に出て2、3年もすると、美術の世界で池田の名前はまったく聞こえなくなりました」
 富岡が所持していた池田満寿夫の作品は、今も菅の手元にある。
「結婚したときに彼女に『どこかに片づけておいて』と言われたので、僕が保管していたんですよ。当時、池田の版画を扱っているギャラリーが買いに来たことがあって、何枚かずつ売った記憶もありますが、たくさんあったからね。全部売っていたらすごいお金になったでしょう。今でも地下のアトリエのタンスにありますよ。50点とか100点とか、あるんじゃないかな」