土方とファッションモデル

「婦人公論」70年3月号には、菅自身が寄稿していた。「土方仁義・肉体の実験室より」というタイトルの6ページの随筆である。千葉港のそばに米倉を建てるための飯場に入った体験が綴られており、本人の手によるイラストに、〈これは仕事をしない時〉と説明のある全身のポートレートには、マッシュルームカットにトンボ眼鏡のサングラス、モッズルックの若者が写っていた。
 そのころ、同誌の編集者だった田中耕平が書いたとおぼしき紹介文には〈二十六歳 現在ものを造ることに専念。これからなろうと思ってるのはファッションモデル、ものを造らない合間にドカタ稼業を職とする。既婚〉とある。
 同じ年の「婦人公論」9月号の随筆欄にも、菅は「モデルになる」という短文を寄せていた。肩書は「造型家・第五回JAFA大賞受賞」。結婚の年に「美術手帖」に芸術評論を応募して佳作に入った菅は少年の頃から本好きで、二つの随筆も文学青年らしい文章である。富岡多惠子の名前は見当たらない。
田中耕平は、無名だった菅に原稿を依頼したことをすっかり忘れていた。
「僕は、菅クンにはお金になるからと言って、ずっとカットを描いてもらっていたんですよね。1枚1000円でした。今だってあんまり変わらないんじゃないですか。原稿は覚えてないけれど、でも、そんなこと僕しかやらないから僕が頼んだんですよね。富岡さんの結婚を聞いて、菅クンを紹介されて、応援のつもりで原稿頼んだのでしょうね。
 会った当初の菅クンはしゃべらなかったよね。僕が富岡さんとしゃべっている時に彼がしゃべるのを聞いたことがなくて、いるのかいないのかわからない感じなの。コンセプチュアル・アートなんてなんだかわからないし、これが金になるかどうかもわからないから、あの当時の作家は誰もが不安だったんじゃないかな。彼も、きっとそうだったろうね。それが伊東に行ったころから日本を代表する作家になっていくんだからねえ」
 菅は「婦人公論」に原稿を書いたことを覚えていた。2015年の東京都現代美術館での個展の図録にも、それは記録されている。
「あのころは、食うためにビル掃除もしたりしてましたからね。ビル掃除も千葉の飯場も、多惠子さんの知り合いのひとの紹介で行ったんですね。ファッションモデルのほうは美大の仲間の関係で『流行通信』の仕事だったけれど、ほとんど仕事は来ませんでした。ただ結婚してからそうして働いていたのは少しの間だけで、すぐに作品作りに没頭するようになりました。彼女は僕がそういうことをやりながらどんな作品を作るのか見ていたんじゃないかな」