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新しい思考の世界
菅は、若林のマンションに転がり込んだときに富岡のもとに集う表現者たちと出会っていた。第二次世界大戦が終わって20年が過ぎ、60年代後半は高度経済成長、公害、全共闘運動など社会が激動するなかで、若者たちが先導する文化が沸騰していた時代である。誰もが時代の先端で自分の表現を模索していた。
「白石さんとか合田さんとか、矢川澄子さんとか、いつも女友だちが2、3人来ていたし、ファッションデザイナーと、その彼氏の写真家とか、四谷シモンや金子國義とかも来てました。考えてみれば詩の世界だって、現代アートだってトレンドの話なんですね。そういう世界っていうのは、新しい思考の世界なんだから。みんな、それぞれが自分の世界を持ち、生きるために何か一番先端的なところを表現しようと真剣に太刀打ちしているわけです。あの時代、美術も詩も舞踊もデザインも演劇も、そうしてワァーッと出てきて大変な熱気があったんですよ。詩も絵画も彫刻もこっち側の人間というのはだいたいつながっていて、イカれた連中が集まっていた。みんなインサイダーではなく、アウトサイダー。僕もアウトロー気分がすごくあって、こっちで生きていこうという思いが湧いてきた時期でした。
僕はまだ若いし、純粋だったし、寡黙だったから、みんなが集まっても話には加わらなかったけれど、その場にいるだけで面白かったよね。だから、普通に絵なんか描いていたら軽蔑されちゃうし、アホ扱いされますよ。多惠子さんにも、ポイされるとは思いました。才能がなければ当然ですよ。経済面でも精神面でも援助してくれてるわけだから、これからどういう作品を作っていくのかビジョンを見せないといけない。どんどんよいものを作っていかないと、ただ飯食ってるわけにはいかないんですから。そりゃ、厳しい。ただ僕の場合、幸運だったのは斎藤義重が先生だったことですね」
1904年生まれの斎藤義重はもの派に影響を与えた、戦後の現代美術を牽引したアーティストである。菅が多摩美の絵画科にいたとき、ちょうど教授として教鞭を執るようになっていた。
「斎藤義重は、当時、最先端の現代アートをやっていて、彼と出会わなかったら僕は全然あかんかったでしょう。斎藤さんは僕と同じ東北の生まれで、雄弁なひとではないけれど、世界の美術界はこうなっているというのをいろんな本を持ってきて見せてくれたんです。斎藤さん自身も展覧会をするしね。そういうのを見ているうちにだんだんわかってきて、僕みたいなものでもこれはやれるという気になったよね。これは平面じゃおっつかないなって。毎週毎週作品を作って持っていきました。ガラス瓶などの廃品や日用品を使ったヘンな作品を提出しても、斎藤さんはダメとは言わずに肯定してくれました」