創造者の孤独

 富岡と出会った当時の菅は、多摩美在学中に新人作家の登竜門だったシェル美術賞をとった絵を捨て、平面から立体へと創作の標的を絞ったところであった。それは、富岡が詩人から作家へと軸足を移していく過程と重なった。
「ちょうど同じようなチャンスだよね。同じ時代を一緒に生きてきたの。僕らは子どもを持たなかったし、そんなことを話し合ったこともないけれど、それは創造者の孤独を認め合っていたからだとも言えるよね。池田との関係と、僕との関係は絶対的に違うんじゃないかな。池田とは家内工業だったけれど、僕のほうは造園みたいなものだから、これは手伝えないなと感じたでしょう。どちらがいいとは言えないけれど、ただ彼女の人生を飾る人間をいくつかのタイプに分ければ、いずれもヘンなヤツですよね。僕も彼女自身、普通の生活感で生きていくひとではないと思ったよね。詩なり、小説なりを書いていく。それは、彼女の根本の魂が普通の女性の生き方とは違うものを求めていたからと思うんだ。そこに一番マッチするのが版画家であったり、僕のような石ころをいじってるヤツだったりする。アーティストを選ぶというのは、彼女の生き方と並行しているんですよ」
 菅が書いた随筆「土方仁義・肉体の実験室より」のイラストには、木に刻まれた「流れながれてゆく里は」の文字がある。小さなころから熱烈な映画ファンだったアーティストが小林旭の渡り鳥シリーズや大好きな藤圭子の歌に感化された“思想”だが、富岡も自分を〈流れ者〉と呼んでいた。

〈二匹の流れ者つうのもいいじゃねえすか、とこの男はいった〉(『青春絶望音頭』1970年) 

 34歳の富岡多惠子の流れ者という自己規定は、はじめての小説のテーマでもあった。

※次回は3月8日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館)                

 

 

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