夫が「別の家で暮らしたい」と

その家はパドヴァの街を流れる川沿いに面して数軒立ち並ぶ、後期ルネサンス時代に貴族や商人などが建てた屋敷のひとつだった。家主の女性はヴェネチアの商家の娘で、パドヴァの旧家であるその家に嫁いでから75年近くが経っていた。

彼女の夫はずいぶん前に他界し、その後は3人の子どもたちとともに暮らしていたが、娘の1人はヴェネチアの旧貴族に嫁ぐも離婚して、今は別の国に移住。もう1人の娘は夫と死別し、今は息子とともにその建物の別の階に暮らしてはいるものの、母親とは仲が悪かった。

家具デザイナーの息子は1階を住居兼仕事場にしていたが、妻が他に恋人を作って出て行ってからは荒んでしまい、コロナ禍の最中に母親と喧嘩をした勢いで外へ飛び出して事故死してしまった。

合理主義の塊のような夫がぼそりと、「別の家で暮らしたい」と呟き出したのは、そのあたりからだ。