「ママ」に感じる日本の夫婦観
先日、イタリア旅行を控える日本人男性の友人から頼まれて、おすすめのホテルをお知らせしたところ、「ママもそこで賛成と言ってました」という返信がきた。親孝行な人だなあと感心して「お母様との旅行楽しんできてください」とニッコリ絵文字を添えて応えると、間もなく「あ、ママって、妻のことです(汗)」と戻ってきた。
そうだった。日本では子供のいる家庭の場合、妻を「ママ」と呼ぶ人がいる。そのことをすっかり失念していた私は、焦って自分の勘違いを詫びた。
妻を母親人称で呼ぶ国を、私はほかに知らない。ヨーロッパでもアメリカでも中東でもアジアでも、「ママ」は自分を生んだ女性にしか使えない独占的呼称で、妻に対して用いられることはない。
別の日本人男性の知人もまた、自らの妻を「ママ」と呼ぶ。聞いてみると、結婚当初は名前で呼び捨てにしていたが、子供ができてからいつのまにか「ママ」になり、子供が成長しても再び名前で呼ぶことができなくなっていたという。
彼曰く、子供の前で妻を呼び捨てにするのは恥ずかしいし、子育てや家事を任せてしまっている手前、自分なりの妻へのリスペクトのあらわれとのことだったが、妻を「ママ」と呼ぶことのない海外の夫たちにだって、同じように子育てや家事を頑張る妻への敬いはある。それでも夫は妻を一生変わらず名前で呼び続けていく。夫から「ママ」と言われて、平常心を保てる女性はまずいないだろう。
昨年日本でも公開されたイタリア映画『LORO 欲望のイタリア』は、汚職や女性問題などスキャンダルまみれでありながらも、首相として9年間、一国のリーダーを担ったベルルスコーニを主題にした作品である。
この映画の中で一番私が興味を持ったのは、お茶目というには度が過ぎた行動をとりまくる夫に愛想をつかした妻が離婚を申し立てるシーンだった。夫はそれまで自分のすべてを認め、許してくれたはずの、最大の理解者であるべき妻から、まさか離婚を突きつけられるとは思っておらず、激しく動揺する。
妻にしてみれば、かつては自分を一人の女性として敬ってくれていたはずの夫から、いつのまにか母親でなければ持てないような懐の広さを求められていることに気がついて、激しい失意を覚えるのである。
妻を「ママ」と呼ぶことはなくても、結局どの国の男たちも、妻が子供に対してそうであるように、自分にも母親的な懐の広さを欲するようになっていく傾向は共通するのかもしれない。
しかし、先述の男性友人によると、妻を「ママ」視するようになるのは、決して自分のせいだけではないと言う。妻のほうがまず子供が生まれてから積極的に「母親」になってしまって、夫である自分から一人の女性として見られることを拒絶しているような態度を取り始めていったのだそうだ。だから彼は、もう随分むかしから妻を一人の女性としては見ていないし、妻もそれに対してなんら反感を抱いているわけでもなさそうだと言う。
たしかに、言われてみれば、女性の友達にも、自分と変わらぬ年齢の夫を「うちのパパ」と呼んでいる人がいる。それはつまり、女性にとっても子供が生まれたとたんに夫はお父さんになってしまうということなのだろうか。それとも、子供の前で夫を呼び捨てすることへの照れなのか。夫婦で「パパ」「ママ」と呼び合う日本の夫婦のあり方を考察するのは、なかなか複雑で難しい。