女の芸術家を入れるゲットー


 作家は、その社会的意味を、88年1月から12月までの1年間担当した朝日新聞の文芸時評で、定義する。

〈「女流」という言葉は女の芸術家を入れるゲットー(収容所)として用いられてきた〉(「朝日新聞」1988年3月28日夕刊)

 朝日新聞に文芸時評という欄が登場した1928(昭和3)年から女性の評者はまれではあったものの、32年1月に中條百合子(のちの宮本百合子)が4回連続で、33年5月から6月にかけては神近市子が4回連続で書いていた。ともに日本女性史に名前が刻まれる作家だが、戦後も、55年3月に平林たい子が1度書いている。以上の時期は評者が頻繁に代わっており、年間を通してひとりの評者が書くスタイルが定着していく56年以降、女性評者は83年~84年の河野多惠子に続いて、88年の富岡がふたりめであった。
 87年には、1935年の設立以来、芥川賞・直木賞にはじめて4人の女性選考委員が誕生していたが、まだ評論は男の牙城で、出版界には朝日新聞に載れば1000部増刷が約束されたようなものだという「朝日1000部」なる言葉があった時代。朝日新聞の文芸時評はつまりは文壇注視の場所であったのだが、そこで書きはじめて3月めに、富岡は、『吉本隆明全対談集』第3巻の後書きにある「女流」という言葉を標的に、全共闘世代が崇拝する吉本を痛烈に批判したのである。そして、吉本批判の文を、88年1月に刊行された織田元子の『フェミニズム批評』と、「ユリイカ」で連載がはじまった三枝和子の「恋愛小説の陥穽」を紹介して、〈遅ればせながらこの国の文学批評に変化を予感させる〉(同)と結んだ。
 それまで漠然とあった『男流文学論』の構想が具体的になったのはこの時期ではないか。
  既に、文芸誌に連載中の随筆でも考察していた。

〈文学が、人間を性的差別することに加担してきたといえば奇妙に感じられるかもしれないが、女性自身の意識をつくりあげるのに文学は大きな働きをしてきたからである。女性が文学から受けとり自己培養してきた女性像は、男性による女性像であった」(『表現の風景』1985年)

 漱石、荷風、谷崎、川端、三島など、日本の近代文学を代表する男性作家の恋愛小説をフェミニズムの視点で批評する「恋愛小説の陥穽」は連載早々から評判を呼んでおり、富岡も刺激を受けたに違いない。三枝和子は、連載がスタートした時期に富岡と顔を合わせていたことを、88年12月に行われたキルシュネライトのインタビューで語っている。
〈「あなた、やり始めたわね」と言われました。彼女は文芸時評をやっているので、かなり風当たりが強いようです。そのときは「お互い負けずに頑張ろう」と言って握手をしましたけれどね(笑)〉(『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』)
 フェミニズム批評の嚆矢は、ケイト・ミレットが『性の政治学』(1970年)で展開したD・H・ローレンス、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラー論。日本では78年に駒尺喜美の『魔女の論理』、83年に水田宗子(みずた・のりこ)の『ヒロインからヒーローへ 女性の自我と表現』、85年に黒澤亜里子の『女の首 逆光の「智恵子抄」』の先駆的な仕事があり、女性学の研究者たちも参入しつつあったこの時期は、いわばフェミニズム批評の勃興期であった。
 とはいえ、男性の独壇場であった文学批評の世界へ女性作家が切り込んでいく大変さは文芸時評で実感したろうに。これまでリブやフェミニズムの運動から距離を置いてきた作家が、そこへ足を踏み入れるには相当の覚悟がいったはずだ。
『富岡多惠子集6』の月報で、文芸時評の最後の原稿を渡したその日に伊東へ家を見に行き、〈こんな遠いところ絶対嫌だと思いながら見て、ここ買いますって、すぐ〉とその日に引っ越しを決めた、と語っている。作家は引っ越しや旅行を、鬱を回避するかっこうの手段としてきたが、『男流文学論』もそんな気分ではじめたのではないか。