ふたりの伴走者


 富岡は、この危険な試みの伴走者にふたりのフェミニストを選ぶ。作家が担当する文芸時評の最後の月、12月の文章にそのふたりの名前があった。 
 ひとりは、社会学者の上野千鶴子である。
『藤の衣に麻の衾』執筆のきっかけのひとつが、まだ出版デビュー間もない上野が書いた『主婦論争を読むⅡ』に触発されたからで、大学院時代に俳句をやって富岡の詩のファンだったという学者と、このときに知り合っていた。85年の三枝を交えた文芸誌の鼎談(「男が変るとき」「新潮」12月号)で文学とフェミニズムを語り合い、親しくなったのは89年3月開催の水田宗子が主宰する環太平洋女性学会議シンポジウムにともに登壇し、そのあと水田の家に一緒に招かれたころからだ。
 上野が担当編集者だった藤本から読書会の話を打診されたのは、それから間もなくのこと。話を聞いて思わず電話口で「本当か」と藤本に質した、と記憶を辿る。
「なんと無謀な、蛮勇ではないかと思いました。女の評者が男の書いたものを『この作品はつまらない』と言った瞬間に、『君には文学がわからない』と言われた時代です。私は門外漢だから『上野千鶴子は文学がわからない』と言われても痛くも痒くもないけれど、文学というのは富岡さんの主戦場、瞬間的に彼女は業界的になかなか厳しいところに立つと思った。本人の口から聞くまでは判断できないので、すぐに電話をかけて、『本気ですか。これは富岡さんにとってかなりリスクを冒すことになりますよ』と聞きました。そうしたら、本気だっておっしゃった。私が彼女の盾にならなきゃと、引き受けたんです」
 もうひとりの伴走者は、宝島のムック「わかりたいあなたのためにフェミニズム・入門」で上野と「日本のフェミニズムはいま、どうなっているのか?」を議論した心理学者の小倉千加子である。富岡は、小倉が『松田聖子論』(1989年)を出すと文芸誌の対談に招き、そこで、これまで損だと思い、恥ずかしくもあって距離をとってきたフェミニズムとようやく向かい合うときがきた、と語った。

〈敵をやっつけるにはどうしたらいいかとは考えます〉〈ひっくり返すにはどうしたらいいかとは思います。それは「あっち側の人」の人たちもですが、むしろその人たちが慣れ親しみ安住し、それが多くのひとを苦しめている考えやシステムに対してです〉(「文学界」1989年5月号)

 箕面(みのお)という同じ土地、しかもごく近所で育った大阪人同士ということもあり、ふたりはすぐに打ち解けたが、対談後、富岡から小倉にある電話がかかってきた。
「富岡さんとは電話でおしゃべりすることも多かったんですが、それがいただいた最初の電話ですね。突然、『あんた、三島由紀夫、どう思う?』と聞かれて。『どう思うもこう思うも、ほとんど読んだことありませんもん』と言うと、『ほんなら、読んだらよろし』と言われてしまいました。はぁ~、読書会なんて面倒なことになったなというのが正直なところでしたが、富岡さんに言われたからにはやらないわけにはいかない。そうしたら、毎回毎回、藤本さんから段ボール2個ぐらいの資料が届いて、その量に押しつぶされそうでした」
 上野も、編集者の周到な準備に言及した。
「文芸評論家の斎藤美奈子さんに『女の井戸端会議』なんて言われて軽く見られましたが、どれだけの準備をしたか。藤本さんが徹底的に資料を蒐集して、その量に富岡さんも小倉さんも、ちょっと読めないと言っていたくらいです。全部読んだのは、3人のなかでは私だけじゃないかな」