忘れられない三島の姿
企画がスタートした当初、富岡は54歳で、上野は41歳、小倉は37歳、藤本は筑摩に入社して6、7年目で、まだ20代だった。87年に上野の『〈私〉探しゲーム』をつくってヒットさせていた藤本だが、『男流文学論』ほど面白くて大変な仕事はなかなかないと、振り返った。
「男性作家の誰を取り上げるか。今からの言い方になりますが、評論家が男性ばかりだから男性作家の小説が男性の目から見た評価になってしまっていた。そうした語られ方に異議を唱えたいということで始まったわけですが、最初に名前が挙がったのが、評論家がこぞって讃える吉行淳之介でした。その他に誰を選ぶか、どの作品を取り上げるかは、私も含めて4人が候補を出し合い、話し合って決めていきました。取り上げる作家と作品が決まると、筑摩の先輩に教えてもらった文学研究の目録や、大宅文庫の総目録などをあたって資料をピックアップして、私は毎日のように国会図書館に通い、資料をコピーしました。あのころの国会図書館は、本当に待ち時間が長くて。でも、めちゃくちゃ面白かった。面白くないはずがないじゃないですか」
筑摩の会議室からはじまり、ときには京都や伊東に出かけて、ひとりの作家につき3時間は費やした。そこで藤本が印象に残った富岡の姿がある。
「誰のときだったか。上野さんが最初に核心を指摘する発言をすると、富岡さんは『あんたなぁ、そんなに最初に核心から入ったらあかんのや。こういうのは徐々に徐々に積み重ねていってそこに迫るようにするもんなんや』とおっしゃったんです。富岡さんは魅力的で、懐が広くて深い方でした」
もうひとつ忘れられないのは、三島由紀夫を語って、〈かわいそう〉と繰り返したことだ。
『男流文学論』で富岡が話したエピソードは、みんなが軍歌を歌って盛り上がっているところに三島由紀夫が来て、めでたい謡曲を歌ってひとり運転手つきの車で東京へ帰っていったという昔の思い出話。これは、64年か65年の正月、鎌倉の澁澤龍彦の家での出来事である。澁澤の妻であった矢川澄子が、「三島由紀夫何者ぞ」という富岡や池田満寿夫たちの前に三島が現れて、そこに馴染むために涙ぐましい努力をしたこと、富岡がひどく酔っていたことを記している。どんなに酔っていても、富岡には忘れられない三島の姿だったのである。