1990年ころ、出身校の箕面中学校(現・箕面市立第一中学校)の前で(写真提供:菅木志雄氏)
 
戦後の文壇史的事件


 89年11月、読書会がはじまった。小倉は気が重たかったものの、はじまってみればそれは楽しい時間となった。
「富岡さんや上野さんとのかけあいは面白かったし、論じた内容もタブーに斬り込んでいくから刺激的だった。でも、最初から核心をついて、速射砲のようにしゃべりまくる上野さんと富岡さんの作家ならではの見解の前にはなにも言うことはなく、富岡さんに『私は、これでいいでしょうか』と聞いたことがありました。そうしたら、富岡さんは『いいんです、いいんです。なんせかしまし娘やから、3人いる』って」
 上野も、読書会は楽しかった。
「3人で話すのは、本当に面白かった。島尾敏雄のところで、私と小倉さんがロールプレイやってるでしょ。ああいうところは、とても笑えますよね。男がやっている対談や座談会となにが違うかというと、ひとりひとりの発言が短くて、しっかり対話になっているところです。男のはモノローグでしょ。3人が関西のノリでちゃんとかみあった女のトークをやった。今でもいい組み合わせだったと思いますよ」
 この時期、まだパソコンは普及しておらず、藤本はワープロも使っていなかった。対談を文字に起こして印刷したものを短冊にして切り貼りし、まとめていった。そのうえで取り上げられた作品の梗概を書き、詳細な脚注を付けた。
「あらすじを書くのは大変でした。語られていることにちゃんと届くように書かなければならないし、しかも長く書くわけにはいかない。あんなに難しいとは思ってませんでした」
 最初の読書会から3年が過ぎた92年1月、『男流文学論』は、世に放たれた。この間、富岡は引っ越しの大変さもあってひどい鬱になっていた。
 文芸評論家の斎藤美奈子は、5年後に出た文庫版の解説で、その朝、新聞広告を見て、10時の開店時間を待って本屋に走ったと綴った。
『男流文学論』の刊行は戦後文壇史的事件になったと、上野は言う。『恋愛小説の陥穽』は物故者の男性作家を対象にしていたが、こちらは現存する作家、しかも文壇の中心にいた吉行淳之介や、ミリオン作家の村上春樹も論じたからだ。
「でも、私と小倉さんのふたりだけなら、決して事件にならなかった。なったのは、富岡多惠子が入っていたからです」
『男流文学論』の刊行と同時に、文壇は騒然となった。

※次回は5月1日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

 

 

「富岡多惠子の革命」連載一覧