しらす。明太子。

かけた途端、チーズやカラスミと同じような塩っ気や魚臭さが加味されて、パズルのピースがピシッとはまったような快感を感じた。しらすにはしょうゆを数滴たらす。しょうゆで発酵みが加わるからチーズやカラスミに近くなる。熊本の客はすごく喜ぶが、パスタ師匠には破門されるかも。

しかしですね、こうして書いてみてわかったことがある。あたしの料理において、おいしいものを食べたいの、人に食べさせたいの、という気持ちは二の次で、興味はひたすら作る技術にあるということ。

家族がいたときは「食べさせる」が目的だったから、栄養も味もメニューもまんべんなくを心がけていた。今は違う。

料理とは、自分の好奇心をひたすら追いかけて突きつめるための手段だ。他のことに比べて比較的短時間で決着がつくし、かなり安価だし(高いものは買わない)、何より、ひとりで自分の動作に向き合う、心を無にして手を動かすというのが、ひとり暮らしにぴったりと合うのである。

で、あたしが次にどこへ行くかというと包丁なんである。こないだ天草の道の駅で砥石を買った(天草の砥石は有名だ)。それでそれ以来、包丁を研いでいる。

昔は家の中に、包丁を研いでくれるというか、研ぐのが好きな人がいたので(夫であります)、自分じゃやらなかった。夫が老い衰えて動けなくなってから、トマトが切れないのに気がつき、簡易の研ぎ器を買ってみた。手軽だったが、夫が研いでくれたみたいに、さわっただけで血が出るような、そういう刃にはなかなかならず、付け焼き刃という感じだった(使い方合ってません)。

日本に帰ってきてからも、生協のカタログで研ぎ器をみつけて買って、適宜しゃこしゃこやっていたのだが、つねにトマトが切れるか切れないかのろくでもない包丁だった。しかし砥石を使うようになってからは、家じゅうの包丁という包丁の、刃という刃が、寄らば切るぞの状態を保っている。

あたしが研ぐのは料理を始める前ばかりじゃない。台所の片付けの終わった後も、寝る前にも歯ブラシくわえて、それからなんだか煮詰まったときも、しめきりの最中にも、あたしはひとりで、無言で、包丁を研ぐ。


対談集 ららら星のかなた(著:谷川 俊太郎、 伊藤 比呂美)

「聞きたかったこと すべて聞いて
耳をすませ 目をみはりました」

 

ひとりで暮らす日々のなかで見つけた、食の楽しみやからだの大切さ。
家族や友人、親しかった人々について思うこと。
詩とことばと音楽の深いつながりとは。
歳をとることの一側面として、子どもに返ること。
ゆっくりと進化する“老い”と“死”についての思い。