苦手と思うなら、なぜ引き受けるのか。そう思われてもいたしかたない。つまり、他人様に「是非!」と言っていただくことを喜ぶタチなのではないか。あるいは、「よくできました!」と褒めてもらったときの快感が忘れられないのかもしれない。

高齢者の自殺について取材したことがある。暗い話で恐縮ながら、そのとき聞いた精神科の医師の言葉が忘れられない。

「人は、この世界で自分がもはや不要な存在だと思ったとき、死にたくなるものです」

なるほどと思った。子孫のために食事を作ったり家事にいそしんだりしていたおばあちゃんが、少し身体が弱ってきたので「もう働かなくていいから。ゆっくり休んでいて」と家族に親切のつもりで労られるや、「もう私は役立たず」と思い込む。おじいちゃんとて同じこと。仕事を任されなくなって、職場に顔を出しても魔者扱いされるようになる。「どうせ迷惑になるだけだ」と悲観する。身体は動かずとも積年の経験を後輩に伝えようと遠慮がちに口出しをしてみると、「いいから黙ってて」と嫌われる。そのとき、自分自身の楽しみを独自に見つけることができる人は、まわりのことなどお構いなし。残る人生を謳歌できるだろうが、そうはいかない高齢者も多い。

だから若い家族は年寄りに何もさせない態勢を作るより、少々認知症になろうとも、「働いてくれないと困るのよ」という環境を用意するほうがいいと医師は言う。

そう言われてもねえ。火の元の心配とかありますからねえ。買い物を頼んで帰ってこられなくなっても困りますよねえ。現実の対応はそう簡単なことではない。

と、そんな話を他人事のように聞いていたのはかつてのこと。そろそろ自分に迫ってきていると実感する。

だからこそ、「阿川さんが必要なんですよ」と言われると、半ばお世辞と知りつつも調子に乗って動いてしまうのだ。